9月11日(金):自己の貧富
今日は新規のクライアントと面接した。感じのいい人であり、好感の持てる人であるが、カウンセリングをやっていけるかどうかに関しては僕の中に一抹の不安がある。この人は僕のカウンセリングを厳しいと感じるようになるかもしれない。ともかく、幾分ゆっくりやっていく必要があるようだ。
帰宅時、近所の書店に立ち寄った。ちょっとした文具を買う必要があって寄ったのだ。ついでに本や雑誌を見て回る。心理学とか自己啓発関係の本にはすごいものもあるなあ。「自己肯定感トレーニング」みたいな本があった。
そういえば、今日のクライアントも自分は自己肯定感が低いと言っていたな。ハッキリ言うけど、僕は自己肯定とか自己否定とかいうものが分かっていない。そんなものが存在しているのかどうかさえ確信が持てない。
自己肯定と言う時、それは自分が自分の何かを肯定するという意味なのだろう。僕はそういう意味として捉えている。違うのかもしれない。何しろ、自己肯定とか自己否定とかいったことが分かっていないのだから。
もし、そういう意味だとすれば自己は亀裂を生み出していることになる。つまり、肯定する主体としての自己と肯定される客体としての自己とである。自己肯定とか自己否定とかいうことは、主体的自己による客体的自己の評価ということになるようだ。
それを踏まえれば、自己肯定とは主体的自己が客体的自己を肯定的に評価しているということである。自己否定とは、それとは逆に、主体的自己が客体的自己を否定的に評価しているということになる。自己肯定感を増やすということは、主体的自己の評価を否定的なものから肯定的なものへと変換していきましょうということになるだろうか。
そういう作業に意味があるとは僕はまったく思えない。無駄な労力を費やすだけであるように思えてならない。というのは、自己肯定であれ自己否定であれ、そこで問われているのは客体としての自己である。主体的自己が問われていないのである。
もう少し詳しく言うと、自己肯定の場合、主体的自己が客体的自己を肯定的に評価しているということであるが、評価の主体がどのような在り方をしているかがこれでは問われていないということである。主体的自己は肯定的な自己なのか否定的な自己なのかが問われていないのである。
従って、もしもであるが、主体的自己が否定的であるならば、客体的自己は常に否定的に評価されてしまうことになる。自己肯定感を増そうと客体的自己にいくら働きかけてもこれでは無意味である。
主体的自己の評価ということはどうでもいい。その自己がどのような存在様式であるか、あるいはどのような世界を内に秘めているかの方が重要である。その自己は豊かであろうか貧弱であろうか。豊かな自己による自己否定は、貧弱な自己による自己肯定よりずっとましである。自己を豊かにするということをクライアントたちはそっちのけにしてしまうこともしばしばである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)