9月10日(金):キネマ館~『キャットピープルの呪い』
9歳の女の子エイミーは少し変わった子だった。友達とは馴染めず、夢の世界に生きているような時がある。担任の先生は子供にはよくあることだというが、両親、特に父親はエイミーが普通の子ではないことで頭を悩ませている。
まず、エイミーの家族を見よう。父親と母親とエイミーである。二人ともエイミーに愛情を注いでいる。黒人の召使がいるが、彼もまたエイミーに健全な関心と愛情を持っている。召使を雇えるあたり、おそらく中流かそれより少し上くらいの家庭なのだろう。庭つき一軒家を構えている。経済的にも苦しくないはずであり、エイミーの育児環境としては悪いところが見当たらないのである。しかし、この子は普通ではないように親たちには見えているわけだ。
エイミーの誕生日がある。友達に送る招待状をエイミーは出さなかった。というのは、おそらく冗談で言ったのだろうけれど、父親が木の節に手紙を入れておくと郵便屋さんが取りに来るとか言ったのをエイミーは真面目に受け取ったのである。友達に出すはずだった招待状が庭の木の節から出てくる。
招待状が送られなかったのでエイミーの誕生日に友達は誰も来ない。両親と召使とでエイミーの誕生会を開く。願い事を唱えながらロウソクを吹き消すと願いが叶うのよという母親の言葉にエイミーは半信半疑で従う。
まず、この一連のエピソードだけれど、本作を鑑賞する上で現実とファンタジーということが重要なポイントになると僕は思っている。木の節に手紙を入れておくと郵便屋さんが取りに来るというのは、父親の冗談だけれど、父親のファンタジーである。エイミーはこれを現実のものとして受け取るわけだ。バースデーケーキのロウソクを願い事を唱えながら吹き消すと願いが叶うというのは母親のファンタジーである。エイミーはこれも現実のこととして受け取りながらも半信半疑になるのではないかと思う。
重要な点は、現実とファンタジーの境界線が両親とエイミーとでは異なっているということである。そして、両親はエイミーも相手が自分と同じ所にその境界線を引いてくれているものだと思い込んでいるのである。このズレが明確化した時に双方に違和感が生まれるのだと僕は思う。
もう一つ、エイミーは友達が欲しいと願っているのだけれど、誕生日会にお友達を招待しようというのは父親の提案ではないかと思う。エイミーがこういうことを提案できるとはちょっと思えないのだな。
父親はエイミーが友達と上手くやっていける普通の子になってほしいと願っているようだ。そのための準備工作というか演出としてこういう提案をしたのかもしれない。いずれしても、両親、特に父親にはエイミーが普通ではないように見えている。なんとかエイミーを普通の子供にしたいと思っているのだ。父親のエイミーを見るこの観点が本作を鑑賞するもう一つのキー概念となる。
翌日、エイミーは子供たちの輪に入ろうとするが、子供たちは誕生日会に招待すると約束していたのに招待してくれなかったということでエイミーに意地悪する。エイミーを置いて逃げ去ってしまう。
子供たちの後を追うエイミーは一軒の屋敷に足を踏み入れてしまう。そこは魔女が住んでいると噂されている家だ。窓からエイミーに向かって何かが投げられる。それは指輪だった。願いの叶う指輪だった。
エイミーの指に指輪がはまっているのを見つけた母親は事情を聞いて、指輪を返してくるように言う。
エイミーは再びその屋敷へ。中へ案内されると、若い女性と老婆が住んでいる。老婆はエイミーを歓迎する。この老婆はかつては女優であった。エイミーの前で演技を披露する。召使が迎えに来てエイミーは去る。
この老婆と女とは母と娘である。娘は実の娘だと訴えるが、母親は娘は6歳の時に死んでおり、お前は詐欺師だと言い張る。現実に大人になった娘が目の前にいるのに、この老婆にとっては現実がファンタジーであり、娘は6歳の時に死んだというファンタジーが現実なのだ。ここでも現実とファンタジーの境界線がズレているわけであり、エイミーと老婆とは近い関係性を示している。また、老婆が女優であるというのも、非現実の役割を現実のように演じる仕事という意味に解すれば、現実とファンタジーの境界線というテーマと関係するように思う。
ちなみに、エイミーの母親はこの老婆を快く思っていない。僕はここに母親のスプリッティングを見る思いがする。エイミーと老婆とは同類というか似た者同士のようなところがあるが、エイミーの方が良くて老婆の方は悪いということに母親の中では決まっているのだ。エイミーを愛するためには、エイミーに属していて尚且つ母親が受け入れがたいものはすべて老婆に転移させなければならなかったのだろう。老婆が悪になることで、母親はエイミーを受け入れることができるのだ。
魔法の指輪を手にしたエイミーは友達が欲しいと願う。すると、そこに一人の美しい女性が現われた。大人の女性である。彼女はエイミーの友達となって一緒に遊んだりする。
父親にはこの想像上の友達が見えない。誰かと一緒に遊んでいるようだけれど、エイミーが一人で遊んでいるようにしか見えないのである。父親にそれが見えないということは、父親にはそれが理解できないということであり、また、父親はそれを見たくないということではないだろうか。
この女性とは、実は父親の前妻であるのだ。前妻は不幸な事件の後自殺して世を去っているのだ。この前妻に関することは父親と母親との間ではタブーになっていることなのである。ここまでくると彼らのことも理解できるようになってくる。
両親のタブーを子供が現実化させてしまうのだ。両親が見たくないものを子供が見せつけてくるのだ。これはよくある話である。
そして、父親は前妻とのことが受け入れられないのだ。異常な体験をしたとでも思っているのだ。自分が異常な体験をしているから(それをエイミーに投影して)、エイミーが普通ではないということに過剰なまでに過敏になってしまい、なんとかしてエイミーを普通の子にしたいと躍起になってしまうのだと思う。
エイミーにはその女性が見えると言っても、父親には見えないし、見ようともしない。父親はそれをエイミーのウソだと決めつけ、ウソをつく子は悪い子だと言わんばかりにエイミーを叱責する。この部分の描写はなされていないが、父親からすれば起きて欲しくないことが起きてしまったことになるので、相当激しい折檻をしたのかもしれない。
エイミーはその夜、雪の降る中、家出する。父親が謝りに行ったところエイミーが姿を消していることに気づく。エイミーがそっと家を出たというのもあるけれど、子供のことに気づかないのは彼らが自分たちのことにあまりにかかりきりになっているからであろう。
警察にも通報して、両親と担任の先生とはエイミーを探しに行く。
エイミーは老婆の屋敷に逃げ込む。本当は恐ろしいことなど何も起きていないのである。両親が子供を探しているだけなのだ。老婆はエイミーの様子から恐ろしいことが起きていることを察したのだろう。要するにエイミーのファンタジーが老婆に共有されたのだろう。老婆はエイミーを連れて逃げようとするが心臓発作を起こして死んでしまう。それを見た娘はエイミーの首を絞めようとするが、その手を緩め、エイミーをハグする。キャットピープルの呪いがとけたということなのだろう。
無事に連れ戻されたエイミー。庭にまだ想像上の友達はいるか。彼女は姿を消している。それはつまり、彼女はエイミーたちの家族でのタブーではなくなり、全員に共有された事柄になったということなのだ。もはや彼女がエイミーたち家族の前に姿を現す必要がなくなったのだ。キャットピープルの呪いから解放されて彼らはようやく家族になることができたのだ。
まだまだ言い足りない。でも、これくらいにしておこう。
映画のことにも触れておこう。本作は1944年公開の作品だ。戦時中に公開された作品で、当然、日本には入ってこなかった。外国の名作が入ってこなくなるので、戦争なんてバカなもんはやるもんじゃない。
監督はロバート・ワイズだ。最初の監督作品ということになるようだ。後に『ウエストサイド物語』など数々の名作を生み出す監督になるとは誰も予想できなかったことではないか。本作のおよそ30年後の『オードリー・ローズ』は監督にとっては原点回帰したい気持ちがあったのかもしれない。
僕が本作の存在を知ったのは、実はD・リースマンの『孤独な群衆』においてであった。けっこうな学術書なのにB級のような映画が取り上げられているのがインパクトに残っていて、それ以来、僕の中では「いつか観たい映画」リストに入っていた。
リースマンは社会学的な観点から、彼の人格論から本作を取り上げているけれど、僕はそれとは別に自分が感じたことに基づいて解釈してみたのだ。
それで、本作を観て良かったと思っている。僕の唯我独断的評価は4つ星半だ。心理学的にも興味深い作品である。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)