9月1日:デジタル庁発足らしい

9月1日(水):デジタル庁発足らしい

 

 今日、デジタル庁というところが発足したらしい。ニュースで聞いた。まあ、正直に言って、デジタル庁って何するんや?ってのが僕の本音だ。

 コンピューターに詳しいスタッフを民間企業などから集めたそうだ。技術が優れていることはもちろんであるが、倫理にも優れた人材なのかどうか不明だ。

 マイナンバーカードも普及させるとか。僕はそれに反対しないけれど、今の政府を見ていて、こんな連中に情報を預けていいのかという思いがある。そのことはいつかここでも書いたことじゃなかったかな。情報提示を求められて、いつまでも資料を探してますと答えたり、秘書がシュレッダーにかけたなどと言ったり、つい先日とか昨年の資料でも紛失しましたとか処分しましたとか言っている政党である。本当に大丈夫かという不安を覚えるのは自然なことではないか。

 

 社会がデジタル化していく。ところが人間も、その他の動物も含めて、生物はデジタルではないのだ。人間はデジタルな存在ではないのに、この社会と時代が人間をデジタルに強制的に変えていくのだ。僕はそれは恐ろしいことでもあると感じている。自然はすべてアナログなのに、デジタルの世界でデジタル化した人間として生きることは、自然としての人間を破壊することである。自然であったものを壊して、不自然なもの、自然からかけはなれたものを自ら作っていかなければならないのだ。それが現代の人間の実存様式なのだ。

 心の病は、不自然化してくる圧力に対しての自然の部分の抵抗である。そういう一面がある。社会の病理と深く関わるのである。親子関係、家族関係よりも、そちらの方が大きいと僕は思っている。いくら良好な親子関係を経験した人であっても、異常な社会に生きていると異常になるわけだ。

 しかし、人は社会から切り離されて生きていくわけにはいかない。もし、それをしようと欲するなら、それ相当の覚悟をしなければならない。言わば文明から切り離された一生を送ることになるからである。

 人はこの社会に適応しつつ、自然としての人間をも生きなければならない。デジタル化が進めば進むほど、人は生き辛くなるものだ。生きることが難しくなってくるものだと思う。便利さや合理性は必ずしも生きやすさにつながるとは限らないのだ。

 

 デジタル化人間の一番の特徴は「退屈」にあると僕は信じている。彼らは自分自身にも、生活にも、自分の人生にも「退屈」してしまうのだ。その人生には楽しいことはあり得ても、喜びはごくわずかである。本当に自分自身が充実するという機会をデジタル化は人から奪う。こんな世界に生きるのはイヤだと僕は思っている。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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