9月1日(木):キネマ館~『ソドムの市』
(ヒエラルキー)
マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日』を、時代を第二次大戦中に、舞台をイタリアに移しての映画化作品。ハッキリ言って胸の悪くなるような作品だ。
4人の権力者たちが館に「奴隷」を集めて、数々の暴虐行為を展開するという話で、あまり具体的に内容を書くと気分を害する人もあるだろうと思うので、省略する。
この館には次のようなヒエラルキーがある。
まず4人の権力者だ。この4人がすべての決定権を持つ。
次に、この4人に影響を与える人たちがいる。本作では語り部の女たちだ。この女たちが、ショパンの美しい調べをバックに、淫猥な話をする(後に述べるが芸術の否定がここにはある)。その話にインスパイアされて、権力者たちの暴行が決定される。
そして、館の使用人たちがいる。警備の人間だったり、コックやメイドだったりする。彼らは意味も分からず館で働くことになっている。淫猥な話のBGMを務めるピアニストもここに含まれる。
最後に奴隷たちである。彼らもまた意味も分からず連れられ、理由もないのに性的虐待や暴力行為を加えられる。
こうしたヒエラルキーは社会そのものであるかもしれない。最後に奴隷たちが暴行を加えられるシーンで、彼らの苦痛の叫びが権力者には届かないという描写は秀逸である。いつの時代もそうであったのかもしれない。ここに社会の縮図を見る思いがするのは僕だけだろうか。
(サドの思想)
内容について細かくかくのは気分が悪くなるので原作者サドのことでも書こう。
サドというとサディズム(加虐趣味)を連想するが、これは後世の精神科医クラフトエビングによって命名されたもので、サド自身は自分がサディストなどとは思ってもいなかっただろう。
生涯の大半を牢獄で過ごしたというサドだ。彼が残した物語はメモ用紙だのトイレットペーパーだのに書き綴られたりしているそうだ。そこまでして彼は物語を綴ったわけだけれど、ハッキリ言って、小説家としては三流である。もともと小説家になるつもりがあったのかどうか分からないので、それも仕方ない話であるが。
なによりもサドの小説は退屈である。物語の展開があまりないのである。本作も残虐な描写がふんだんにあるが、それぞれのエピソードは相互に関連付けられることなく、ただ並列されている感じである。このエピソードが次のエピソードにつながるとか、このエピソードが後のエピソードの伏線になっているとか、そういうものがまったくないわけだ。小説のプロットに欠けているのだ。
映画の方もそうである。4人の権力者が自分たちの娘を交換するという、原作ではわずか数行のエピソードも取り入れているので、割と原作を忠実に映画化しているのかもしれない。
原作にそういう欠点があるので、映画作品の方も同じ欠点ができてしまうわけだ。ただ残酷で、目を覆いたくなるようなシーン、吐き気を催すようなシーンが、ただ羅列されているだけなのだ。だから退屈でもある。
原作は退屈でもサドにはある種の思想があると思う。サドの作品の登場人物たちは不当に苦しめられる。たいていは立場的に弱者にある者が虐げられる。そこで虐げられる人たちは神に救いを求める。しかし、いくら神に祈ろうと、神は救いに来ない。彼らの救済の望みは叶えらえることがないのだ。
サドが繰り返し描くのはこの神の非存在ではなかろうか。神など存在もしないし、助けにきてくれることもない、それを繰り返し訴え、繰り返し証明したかったのではないか。サドの時代ではこれは相当な危険思想だったに違いないと思う。
少しばかり深読みすると、館で繰り広げられる種々の行為は魔女がサバトで繰り広げた(とされる)行為と通じるものがある。性的乱交、スカトロジー、暴虐行為などなど、あまり具体的には書かないけれど、魔女や悪魔崇拝者が神を否定する諸行為が本作でも見られるように思うので、神の否定ということを僕は痛切に感じる。
うっかり神の名前を口にするとう〇こ食わされてしまう。そんな世界だ。神の存在しない世界とはそういうものである。逆説めくが、それだけに僕は神が存在する世界を信じたくなる。神の存在しない世界には耐えられない。
(使用人たち)
作品にはさまざまな否定が描かれる。人権の否定、人格の否定、性の否定、芸術の否定、そして神の否定、愛の否定がある。使用人でさえ、愛の行為に耽ると処刑されてしまう。
この使用人たちは、そこでどんなことが行われているのかを知っている。それでも権力者に楯突くわけにはいかず、権力に従う。彼らの末路が二通り描かれている。
一つはピアニストのように自殺してしまうことである。
もう一つは警備兵たちのように、音楽に合わせてダンスすることである。つまり徹底的に心を閉ざして外界に無関心になることである。
権力者と奴隷との中間層の人はそのようにしかできないというのは意味深である。
(音楽)
ラストで兵隊たちがダンスする際に流れる音楽がある。オープニングにも流れた曲だ。エンニオ・モリコーネ作曲である。この曲がいい。退廃的でアンニュイでノスタルジックなムードが魅力だ。
あと、ラストの暴力シーンで流れるのはオルフの『カルミナ・ブラーナ』の一曲だ。この曲はバロック以前のルネサンス期の雰囲気があって僕の好きな一曲だった。本作によって嫌いな一曲になってしまった。
その他、ショパンの前奏曲集などが淫猥な語りのバックで流れるのだけれど、好きな曲が冒涜されているみたいでどうも気分が悪くなる。だから芸術の冒涜並びに否定をも僕は感じとってしまうのである。
(唯我独断的映画評)
さて、映画の方であるが、ハッキリ言えば悪趣味である。見て後悔してしまう類の作品である。それでも僕はこの映画作品に4つ星半の評価をしたい。よくこんな映画を作れたなという思いもある。ただ、う〇こはあんなにリアルに作らなくてもいいのにとも思うのであるが。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)