8月5日:『審判』(カフカ)と罪

8月5日(火):『審判』(カフカ)と罪

 今日は休みだ。買い物をしようと大阪まで出るつもりでいたが、お腹の具合がよろしくなく、結局、高槻で途中下車し、一日中、職場に留まった。
 特に何をしようという目的もなかったので、論文を読み、キーボードを弾く。今週から少しでも時間を見つけて、キーボードを弾こうと決める。ピアノが上手になりたいし、指先を動かすことはいいことだと思う。
 とは言っても、ブランクが空いているので、指が動かない。ピアノをやっていたという人ならこのもどかしい気分も分かっていただけようと思うのだが、思うように指が動かないのだ。
 昨日よりかは多少なりとも動くようになった感じはしているけれど、まだまだ指が硬い。
少しずつ取り戻していこう。それから以前よりも上達していこうと考えている。

 日曜日から読み始めたカフカの「審判」を読み終える。今回2回目だ。前回読んだときにはよく分からなかった箇所もたくさんあったが、2回目となると理解も深まる。それでも分からない箇所がなくなったわけではないが。
 この本、僕はある目的のために読んだのだった。その目的に役に立つかと思って読んだのだった。でも、僕のその目的にはあまり役に立たないけれど、物語は面白い。

(『審判』カフカ著)
 物語は、ある朝、いきなり主人公のKが訴訟されるという場面から始まる。Kにはなぜ自分が訴訟されないといけないのかが分からない上に、誰もそれを教えてくれないという状況に陥る。
 通常、罪というものは、何か違法行為などがあって、訴訟・裁判があって、それから罪が確定されるという順序を経るものだ。カフカの描く世界は通常の順序とは真逆になる。
 つまり、訴訟されているから、罪があり、罪があるからには何か違法行為があるはずだということになる。
 ここでは自分には身に覚えのないことなのに、周囲が罪を認めているという状況があるわけだ。その中でKもこの訴訟騒ぎに巻き込まれてしまい、身に覚えのないことに対して無実を証明していかなければならなくなってしまう。うーむ、実に不条理だ。
 全体は10章から成る。最後の第10章でKは処刑を受ける。その前の第9章で、Kは一人の僧と聖堂にて対話する。この僧はKに、掟の門を通ろうとする男と門の番人の物語を聞かせる。その物語はいかなる解釈も成り立つがいかなる解釈も受け付けないものだと僧が語る。そのことはそのまま本書にも該当するように思う。
 僕が興味を覚えているのは、さらにその前の第8章である。この章でKは正しい道に踏み出そうとしている。Kは自分の弁護士を解雇しようとする。つまり、あらかじめ罪が決定されている上での訴訟騒ぎから抜け出ようとしているのだ。この関係から脱却しようとしているわけだ。弁護士は当然それに反対し、Kにこの状況に留まらせようとするのだが、この章だけなぜか未完成なのだ。なぜ未完成なのに挿入されているのかということ、また、カフカはなぜ完成させることができなかったのだろうかという疑問が湧いてくる。
 未完成の章といえば、本作には他にいくつもあるし、また、完成した章からカフカが削除した箇所もいくつもある。全体がどんな姿だったのかは、カフカ本人しか知らないことだ。だから永遠に完成されることのない作品でもある。
 
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 ある違法行為があって、それに罪が確定されるものである。罪が先にあって、罪があるから何か違法な行為、間違った行為があるはずだと考える。そうすると、必ずそういう行為が見つかるものである。「うつ病」など、一部の人たちが抱える罪悪感はこの種のものである。
(平成29年2月)

 

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