8月30日:『殺される夢』

8月30日(土):殺される夢

 お盆明けから具合の悪い日が続いていた。昨日がピークだったような気がする。昨日は終日胸焼けに襲われ、嘔吐感に苦しんだ。胃腸の調子も悪く、心身ともに辛かった。
 これではいけないと思い、今日から心身の回復を心がけようと思う。
 そんな矢先、今朝、こんな夢を見た。

(夢―「殺される夢」)
 僕はどこかの家の中にいる。何をしているのか分からないけれど、家の一角が店になっていて、商品が陳列されている。業者のような感じの人たちが店の品物を撤収している。僕はここも終わりだなという気持ちになっていたが、悲しいとか同情するような気持ちはなかった。
 それから、僕は入浴しようと思い立ち、銭湯に向かう。生憎、閉店していたので、僕は諦めて帰途につく。その途中、男たちが数人僕の前に立ちはだかって、いきなり拳銃で撃たれた。僕は死んでいる自分を感じたが、同時に目が覚めた。

(連想と感想)
 夢の中で自分が死ぬ時は、僕はよく注意しておこうと思っている。この死は、必ずしも悪い意味ばかりとは限らないからだ。
 目が覚めてすぐに思い浮かんだのは、僕にとって必要なことは、身を清めるということ(これは入浴で表されている)ではなくて、死を経験することだと思った。もちろん、ここで言う死とは現実の死ではない。象徴的な死のことだ。
 また、商品が撤収されているという場面だが、最近、近所のコンビニが閉店になった。商品が撤収されていて、ほとんど品物がない状態だった。僕も昔はコンビニでバイトしていて、今でもその当時の店長とは仲がいいのだけれど、その店も閉店した。僕は最後の場面を見なくて良かったと思っていたけれど、一方では、末永く経営して欲しかったし、いつか僕の言い分も伝えようと欲していた。
 夢では、もうそうしたコンビニ時代の感情が失われていることを示しているようだ。過去のものになっていかなくてはならない。それは僕の死とともに葬られなければならないことなのかもしれない。
 また、夢の中の店であるが、これはコンビニのような感じでもあったし、一方では住居でもあった。家にまつわる何かも同じように葬られていく必要があるのかもしれない。

(昼休みにて)
 今、昼休み。午前中はけっこう頑張った。8時半には入室して、それからずっと活動している。
 出勤前に電子タバコを買った。以前も使ったことがあるが、放置していて壊れていたので、新たに買い直す。少しでもタバコを減らすことができればと思うのだが、電子タバコは意外と不便なのだ。まず、充電に時間がかかりすぎるのが難点だ。3本くらい買って、使い回さないと、充電中にタバコが欲しくなる。これは過去に経験済みだ。
 本は、ガンダーソン「境界パーソナリティ障害」を読み始める。出勤前に第1章を読み、空き時間に第2章を読んだ。他、「考え方の論理」(沢田充茂著)の第1章を読む。
 ガンダーソンのその本はとても愛着があって。これまで何度も読み返したものだ。今回、もう一度、原点に立ち戻るつもりで読み直している。
 室内を少し整頓して、シュレッダーを何回かかけて紙類を処分する。その後、サイトを4テーマ分公開する。
 見回してみると、デジタル化作業も滞ったままだし、事務作業も遅れている。清掃と整頓も手つかずのままという箇所がいくつもある。やろうと決めていながら、できないでいる部分だけがやたらと目につく。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 この頃、何かとしんどい日々を送っていたのだと思う。いろんな雑務に追われていたようだ。その雑務のほとんどは自分自身で決めたことだ。ある意味では自分で自分を苦しめているようにも思う。でも、やらないわけにもいかない。この辺りのジレンマがどうしても解消できないでいる。
(平成29年2月)

 

関連記事

PAGE TOP