8月3日(土):自己評価は当てにならず
今日は朝から予定していた作業があったのだけれど、思いのほか早くケリがついた。朝は幾分余裕が生まれた。お昼にお昼ご飯を食べる時間もできた。
午後からは、一人遅刻したクライアントがいた。その後の予定を遅めに取っておいたので、どうにか対処できた。
今、夕方のクライアント待ちである。16時からでもよかったのだけれど、昨日の段階では予定が詰まりそうだったので、17時にしてもらったのだ。おかげでこれを書く時間も確保できた。
さっき、変わった電話を受け取った。病院に通っている人で、ずいぶん良くなったとその人は言う。そのうえで、どういうことに気を付けたらいいかと僕に尋ねてきたのだ。
当然、僕はそれに答えられない。見ず知らずの人のことは何とも言えないからである。だから、お世話になっているお医者さんと話し合ったらいいですよと答えておいた。いつもなら辛辣な一言でも添えるところなんだけれど、アッサリ電話を切った。
辛辣な一言とは、次のものである。良くなって気を付けることは、こういう電話をかけないことです、というものだ。まあ、言わなくて良かった。
そもそも、僕はその人がお医者さんに通っているというのも疑わしく思っている。まあ、下手に疑うようなことはしないでおこう。その人の言う通りのものを信用しておこう。その人は現に病院に通い続けた人であるとしよう。
通常なら、かかりつけのお医者さんにそういうことは尋ねるだろうし、それは医師と相談していい事柄である。それをすっ飛ばして、見ず知らずの臨床家に、いわばセカンドオピニオンを求めるというのは、その人の中の何かが「悪い」のである。あるいはその人と医師との関係において、何か上手くいっていないものがあるのだ。
医師からすれば、この人のこの行為は「行動化」である。その医師との関係で何か上手く機能していないものがあるのだと思う。医師並びに病院とパートナーシップを形成できていないということだと思うし、医師や病院に対する不信感をこの人は抱えているのだと思う。
だから、僕はこの人が病院に通っているということは何とか信用できるとしても、「良くなってきた」の部分に関しては、まるで信用していないのである。本当に良くなっていれば、信頼している医師、かかりつけの医師と抵抗なくそのことを相談できるはずである。
当人が自覚している「良くなった」という経験は、時に正反対の事象を示していることもある。例えば、症状が自我異質的であれば、その症状は自己にとって異質の存在である。異質なものを抱えているので、自覚としては、苦しいのである。これが自我親和的になると、もはやその苦しみは経験しなくなる。しかし、これは症状が「定着」したことを意味するので、臨床的な観点からすれば望ましくないということになる。
従って、「良くなった」「悪くなった」という当人の自己判断は当てにはならないのである。
まあ、そんな話は止そう。そろそろ次のクライアントの準備をしておかないといけない。次の人が本日の最終である。今日は高槻祭りなどという縁起でもない日なので、次の面接を終えたら、今日は速やかに帰宅しようなどと考えている。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)