8月3日:唯我独断的読書評~『太陽のない街』

8月3日(金):唯我独断的読書評~『太陽のない街』(徳永直)

 プロレタリア文学などという死後に等しい言葉を聞いて、どれだけの人がピンとくるだろうか。戦前にはこの分野の作家がたくさん作品を書いていたけど、現在でも残っているのは小林多喜二の『蟹工船』くらいではないだろうか。

 これは、要するに、労働者階級、無産者階級の文学、彼らの抵抗の文学ということである。あまりこういう文学に傾倒すると、○○主義者だの、○派だの、○翼だのと言われそうだ。僕自身は人間が置かれる状況の一つとして、プロレタリア文学も読むことにしている。

 本作は、昭和4年に発表され、徳永直(とくなが・すなお)の名を一躍有名にした作品で、ドイツ語やフランス語にも訳されたほどである。

 タイトルの『太陽のない街』(僕はこのタイトルに魅せられた)には二つの意味がある。一つは大同印刷会社の従業員たちが住む谷底の町のことである。山と山に挟まれたこの町には太陽が届かないのである。もう一つの意味は、ヒエラルキーを指している。谷底の町に住む人たちは最下層階級の人々である。もう少し出世した労働者は丘陵地に住み、少しは太陽が当たる暮らしをしている。頂点に君臨する社長は山の頂上に居を構えている。この町はもっとも日の当たることのない、底辺の人たちの町である。

 本作は、大同印刷会社の労働者たち、それも底辺の労働者たちが会社に対して行ったストライキの顛末を描いている。本作を一言で言えばそれに尽きるのであるが、それをさまざまな立場から立体的に描き、双方の攻防をスリリングに描いているところが優れている。

 立体的と述べたけど、これはさまざまな視点から描いているということである。特定の視点からのみ描いていないということである。これを言い換えると、本作は特定の主人公や中心人物を有さない小説であるということだ。

どうも、この種の技巧を施されるのは僕には困ったことである。感情移入できる特定の人間が登場してくれないと、僕にとっては、読みにくくて仕方がないのだ。

 僕にとっては苦手なタイプの小説であるはずなのに、最後まで一気に読み通せたのは、物語が面白いからだ。労働者たちで結成する争議団のストライキと資本者側の攻防は、奇襲攻撃あり、スパイ戦あり、罠の張り合いや腹の探り合いといった心理戦もありと、めまぐるしく展開する。しかし、資本者側が強いのだ。それもそのはず、彼らは政治を、国家権力をも活用できる。争議団側は警察の一斉検挙によって繰り返し打撃を受け、弱体化する。争議団は同士をかき集めるものの、資本者側に寝返る者があらわれたり、争議団内で意見が対立したりと、組織内で分裂が起き、弱体化していく。最初から勝ち目のない戦いであったかもしれないが、その無益とも言える戦いに命を賭けていく人たちの姿は、僕には、一方で愚かなようにも見え、一方で英雄のようにも見えた。

 しかしながら、結局、これは実体のない敵との戦いだったのだ。資本主義という思想との戦いだったのだ。この意味では、資本者側もまた資本主義の犠牲にならざるを得ないのだ。ここに一抹の空しさを僕は感じる。

 命を落とす者も現れる。婦人団に参加していた若き加世はお腹の子供もろとも生と使命の半ばで息絶える。大川社長の孫娘も死を迎える。双方が不幸を経験するのだが、誰もこの不幸を食い止めることはできない。一旦、堰を切ったものは、行き着くところまで行き着かなければならなくなるのだ。

 さて、本作の唯我独断的読書評は5つ星だ。満点を進呈しよう。面白かったし、考えさせられることも多かった。しかし、本作に満点を進呈したからと言っても、決して、僕は○○主義派でも、○派でも、○翼派でもない、ということは繰り返し強調しておこう。純粋に小説の良さを示した評価である。

<テキスト>

『日本文学全集36 小林多喜二・徳永直 集』(新潮社)より

「大陽のない街」

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

関連記事

PAGE TOP