8月27日(木):時間的展望
クライアントの話からはいろんなことを学ばせてもらっている。ありがたいことである。書物だけでは得られない貴重な体験や場面を教えてもらえることは、本当に幸せなことだと思う。
今日のクライアントさんは娘さんの話をした。この娘さんが若いころにカウンセリングを受けたそうである。ところが娘さんはそのカウンセラーさんと大喧嘩をやらかしたというのである。何があったのだろう。
娘は「2年で治したい」ということを言ったらしい。するとそのカウンセラーは「2年どころか5年かかる」といったことを答えたらしい。それに娘は激怒して、カウンセラーと言い合いになったそうである。母親は娘がなぜそこで激怒してカウンセラーと喧嘩したのか分からないと言うが、無理もない。
僕はこう思う。娘が2年で治したいと訴える時、それが意味していることは、娘にとっては2年先までのことしか手に負えないということなのだと思う。それ以上先の将来のことをカウンセラーが持ち出したので、娘にとってはとても手に負えない事態に直面させられてしまったのだと僕は思う。
これは時間的展望の拡散と呼ばれている現象に含まれるものだと僕は思う。時間的展望が拡散している人にとって、将来は闇に包まれているようなものである。光が当たっているのは直近のわずかの将来だけである。それより先は見えないものだから、不安で恐ろしいものに見えるわけだ。
言い換えれば、娘さんが安心して取り組めるのは2年の範囲であるということなのだ。それより先の将来は恐ろしいものが渦巻いているように見えているかもしれない。そこは闇であり、無の空間なのであり、象徴的には死の世界なのだ。
カウンセラーの言葉は娘さんをその恐ろしい空間に投げ込んだことになる。娘が激怒するのは当然と言えば当然である。その瞬間に、とてつもない不安が娘さんを襲ったのではないかと僕は思っている。
2年で治したいというのであれば、頑張りましょうと答えればいいのである。もう少し突き放した言い方をすれば、「それはあなた次第ですよ」ということになる。「5年かかります」と言うのはご法度である。
それに人格障害圏の人の場合、もちろん人によって異なるものではあるけれど、2年くらいでかなり良くなるものである。僕はそういう印象を受けている。
治療期間が長くなるのは、治療以外のことに費やす時間が多いからである。仮に10年かかったというケースがあるとしよう。そのうち、最初の5年くらいは治療に入るまでの時間であったりする。治療に入るまでに何をしているかというと、臨床家を試したり、クリニック等を転々としたり、受けたり受けなかったりを繰り返したり、周辺の事柄とか他人の問題にかかりっきりになっていたりとか、そういうことをしているのだ。
本腰入れて治療に取り組めば2年か3年くらいで良くなることが多いと思う。そして、あとの2,3年はその後の経過観察のような時間がもたれることが多い。
こんなふうに書いてしまうと、最初の時期、治療に入るまでの時期というものがまるで無駄な時間のように見えてしまうかもしれない。これに関しては、僕は賛否両論を支持している。ある部分では無駄であり、ある部分では有益である。
僕はこれを「3分間クッキング」を例にする。調理時間が3分である。すぐにできて、簡単にできるように見えてしまうのだけど、料理にはド素人の僕が真似をしてしまうととんでもないことになる。とても3分間では出来上がらないのである。
理由は簡単だ。3分間クッキングでは下ごしらえがしっかりできているのである。それがしっかりできているから調理が3分間で終わるのだ。下ごしらえが不十分だと、調理と下ごしらえとを同時進行でやってしまわないといけない。そうなると余計な時間がかかってしまい、調理時間も却って長引いてしまうものだ。
一方、下ごしらえをあまり熱心に丁寧にやって、細かいところまで丹念にやってしまうと、それだけで一苦労であり、疲労してしまうだろう、下ごしらえを終えた時点で力尽きてしまうかもしれない。そこから調理しようなんて気が起きなくなるかもしれない。
治療に入るまでの時間も、この下ごしらえと同じようなものだと僕は考えている。適度な準備期間はその後の治療に有益であるだろう。けれども、延々と準備期間だけを続けてしまうことは、その後の治療への士気というか動機づけを下げてしまうだろうと思う。
その準備期間を20年以上続けている人も僕のクライアントの中にはいる。その人自身はそこに気づいていないんだけれど、治療者、カウンセラーとつながっている時期の方が、それ以外の時期よりも、明らかにその人の状態がいいのである。いい加減、治療関係に入ったらいいのにと、その人と会う時はいつもそう思ってしまう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)