8月22日:本を読み
引き続き『高い城の男』(P・K・ディック)を読んでいる。今日はp200辺りから続けている。
今、女性と女性が抱える諸問題について、並びに性やジェンダーに関して、いろいろ読んでいる。今日は「フリー・セックスの社会病理」(長谷川浩)を読む。70年代の論文だが、愛に関して説かれていることは今でもその価値は失わない。当時のフリー・セックスと現在のセックス状況とは差異があるけれども、現代はさらに人間疎外が進んでいるように僕は感じている。他人を疎外するためにセックスが利用されるということは一見すると矛盾のようであるが、僕はけっこう頻繁に見かける事実だと考えている。
「結婚論」(ハヴロック・エリス)。「1・結婚の幸福」より、結婚は業績であるという考え。結婚に失望するのは、結婚の意義がより大きかった側であり、それだけ失望も大きくなる。離婚は解決策とは言えない。二度目の結婚が一度目の結婚よりも幸福にならない場合も多いからである。間違っていたのは結婚ではなく、その人自身であるという洞察。
「2・一夫一婦制の基準」より。一夫多妻制は多くの場合、一夫一婦制が拡大されたものであるということ。男性がより多くの結婚を望んでいるかどうかという問題ではなく、より多くの性的自由を望んでいるかどうかという問題である。
『母を失うということ』より「1・母を失うということ」。死別の悲しみは季節のように巡るもの。親の喪失に順応するには、子供には多くの能力がまだ備わっていない。子供は大人とは違った悲しみ方をするということ。そのために大人は子供を誤解してしまう。亡くなった母に対する怒りは寂しさを覆い隠すが、その他の感情と付き合っていくことを妨げ、また別のお荷物(理想化など)を運んでくる。故人を悼むには、故人のありのままをみなければいけない。故人を断続的に思慕することは故人を悼む正常な過程であり、通過すればそれで終わるというものではない。そういう解決は幻である。
継続しているクライアントの男女比というのは、その時々で違いがあるのだけれど、今現在、女性が9割に達している。女性のクライアントがそれだけ多いということだ。彼女たちと面接していると、よく分からない点にいくつも遭遇する。それらは今の僕のテーマになっている。それらのテーマを考えるために、いろんな文献を読んでいるというわけだ。
特に男性である僕に理解が困難なのは、女性にとって母親とは何であるかということだ。母と娘の関係である。
フロイトは男児の考察から入って、男児との比較によって、あるいは男児の発達を下地にして、女児を考察している。主要な対象が、男児の場合は変わらず母親であるが、女児は母親から父親へと対象が置き換えられると仮定し、そのプロセスを考察している。(『女性の性愛について』)
しかし、後の女性分析家たちが指摘するように、フロイトの説は女性を適切に考察できていない。多くの見落としや間違いがあるというわけだ。これは男児の発達から女児の発達を考証するという方法に誤りがあったのだと僕は思う。
フロイトの素晴らしいところは、僕が何かテーマを抱えたり壁にぶつかったりした時に、フロイトを紐解いてみると、必ずどこかにそれに関しての言及がなされているのを発見するということだ。その理論が正しいかどうかがここでは問題なのではない。フロイトもまたそうしたテーマや壁に向き合ったのだということが分かると、それが僕にすごい安心感をもたらすのだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)