8月2日(金):書架より~『カスパー・ハウザー』(A・フォイエルバッハ)
20代の前半頃、「野生児」に興味を持った時期が僕にはある。「野生児」とは、何らかの事情で人間的な環境から引き離されて育った子供のことである。動物に育てられた子供とか幽閉されて育った子供などである。
人間が人間になるために何が必要か、「野生児」たちの記録はその疑問に答えてくれそうに思えた。後に、僕はその答えを「精神病」に求めるようになり、自然と「野生児」への興味関心は薄れていった。
本書は、そのため、僕の書架にずっと存在していたけれど、初読以来ずっと開いたことがなかった一冊である。本を処分する(僕の個人的な)キャンペーンに本書も処分候補に上がっていた。それで、処分する前に、最後にもう一度だけ目を通しておこうと思い、およそ20年ぶりに本書を紐解いたわけだ。そして、困ったことに、これはすごくいい本だと再評価することになってしまい、処分候補から外すことになったのだ。
1828年5月26日、ニュルンベルクの町に異様な風体の人間がたたずんでいた。それがカスパー・ハウザーである。彼が手にしていた手紙によると、彼は捨て子で、彼を育てた養育者は貧しくて彼を育てることができなかった旨が記されている。この少年は地下牢のような場所で幽閉され、水とパンだけ与えられて生きてきたのだった。
手紙によれば、カスパーの年齢は17歳くらいであった。年齢から言えば青年であるが、彼の思考や認識は幼児のものであった。
この不幸な青年の噂は広がり、ニュルンベルクのビンダー市長はカスパーを保護する政令を発表する。カスパーには家庭的な環境が必要だということで、それまで警察に一時保護されていたのを教育者のダウマー氏の家庭へ移されることとなった。
過去のカスパーの生活は不明である。パンと水は与えられていたので、曲がりなりにも養育はされていたようである。また、不完全ながら言語を使用できるということは、わずかでも人間的なつながりが存在していたことを伺わせるものだ。種痘の痕跡は、彼が高貴な家の生まれではないかと疑わせるものであった。
知覚は鋭敏であった。コップ一杯の水の中に一滴のコーヒーを混ぜてもカスパーはそれを識別できた。薄暗い部屋でもよく見えた。金属や磁気に関しては常人では及びつかないほどの鋭敏さを見せた。
また、彼は粘り強く物事に取り組み、チェスを速やかに覚えたという。中でも乗馬の技術は優れていた。
人並外れた能力は他にもあるが、ダウマー一家と生活していく中で、徐々に食べることのできるものが増え、言語を理解し、特異な能力は影を潜め、徐々に普通の人間になっていく。
カスパーは自伝を執筆することを決意する。この噂は広まり、おそらく、カスパーを捨て、幽閉した人たちの耳にも入ったのだろう。彼が生きていては困る連中がカスパーを暗殺しようと試みる。
幸運にも最初の暗殺は未遂に終わったが、二度目の試みで運は暗殺者たちに味方した。1833年、カスパーはその不思議な一生を終える。
日本ではさほどではないが、ヨーロッパではカスパー・ハウザーに関する研究が数多くなされている。カスパーに関する書籍や論文も膨大な数に上る。
本書もそうした一冊であるが、難点がなくもない。種村季弘氏によれば、この日本語訳は英語からの重訳であり、その訳文の信頼度は低いとされている。僕にはどこがそうなのかは分からないけれど、そういうことらしい。
また、著者のフォイエルバッハはカスパーよりも先に没しているため、カスパーの晩年に関する記述が希薄である。カスパー自身、ニュルンベルグから離れたせいもあるだろう。本書ではその全生涯が記録されているわけではない。
さらにフォイエルバッハによる解釈は後々議論の的になったりしている。つまり、その解釈の妥当性がどれだけ信頼できるかは不明である。
それでもなお本書は一読の価値がある。なによりも、著者は生前のカスパーと現実に接した人たちの一人である。後の研究書がカスパーの資料に基づいて書かれているのに対して、本書は生身のカスパーに基づいている。生身の、生きたカスパーが記述されているところに本書の価値があると僕は思う。
ある時、著者はカスパーを連れて山に登った。眼下に広がる光景を見て、カスパーは最初は嬉しそうだったが、やがて悲しそうな表情を浮かべる。この気分の変化をカスパーは次のように言う。
「なんてたくさんのものがこの世の中にはあるんだろうかと、ちょうど考えていたんです。こんなに私は長く生きてきているのに、何も見なかったことは何と無情なことでしょう。子どもたちは小さいころからずっとこんな眺めを見ることができていたなんて、何と幸せなんだろう。それなのに、私はもうかなり大きくなっているのに、今でも子どもたちがとっくに知っているような事柄を学ばなければならないなんて…。私はあの地下牢から出てこなければよかった。あの男はどうして私を連れだしたりなんかしたのだろう。あそこにいさえすれば、何も知る必要もなければ、感じる必要もなかったのに。もう子どもではないという苦しみ、そしてこんなに遅くなって世の中にやってきたという苦しみも経験しないですんだろうに」
生まれ出る苦しみ、世の中へ出ることの苦しみをこれだけ率直に打ち明けた言葉は他にないかもしれない。人が感動体験をするとき、この時のカスパーのような感情を経験するのではないだろうか。生まれること、生きることとは、こういう経験の繰り返しではないかと僕は思う。カスパーが生き始めていることを僕は感じるのだ。
他にも、カスパーの生の声が記録されている。その言葉の随所で、僕たちがすっかり忘れているような経験や認識が表現されているように感じる。カスパーの言葉にハッとさせられることも少なくなかった。
いろいろ思うところもあるけれど、これくらいにしておこう。
本書の唯我独断的読書評は断然5つ星である。
テキスト
『カスパー・ハウザー(野生児の記録3)』(A・v・フォイエルバッハ著)
中野善達、生和秀敏 訳
福村出版
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)