8月19日(日):母親
「もっと子供にしてあげられることがあったのに」
子育てをとっくに終えた母親がこう嘆く。僕から見ると、この人は立派に子育てをしたように見えるのだけど、この人は自分をダメな母親だったと信じている。悲しいことである。
子供に対してしてあげられることには限度がある。母親も人間であり、万能ではないからだ。でも、これはしてあげることの量で決まるのではない。あまり大切でないことを100も200もしてあげるよりも、本当に大切なことを1つしてあげる方が望ましい場合もある。
この母親は自分では気づいていないのだけど、子供たちにそれをしているはずなのである。そうでなければ、子供たちはもっと重篤な問題を抱えていたはずである。
しかし、自分は子供に十分してあげられなかったとか、この子の母親が私であって申し訳ないとか、そんな気持ちに襲われる母親の方が、そうでない母親よりかはましかもしれない。この母親は。一応は、子供のことを考えているからである。もっとも、後悔や自責があまりに強すぎるのも困りものだが。
それと正反対の母親の方が僕からすると厄介である。つまり、自分は完璧に子育てをしてきた完璧な母親であると信じているような母親が一番厄介である。この母親は、自分が完璧な母親であるかどうかだけを考えている。本当に子供たちに興味が持てているのか、関心を向けることができるのか、はなはだ疑わしい。
過去に何人かこの種の厄介な母親とも面接したことがある。手に負えない感じしか僕には残らない。もし、子供に何か問題があっても、悪いのは子供自身であり、父親のせいであるということになる。なぜなら自分は母親として完全なのだから、自分が悪いはずがないという理屈になるからだ。
子供が明らかに母親に対して苦情を言っているのだけど、この種の母親はそれに気づかない。ある母親は「子供がそんなことを言うのは父親の遺伝だ」と断言したのである。彼女は自分の中から「悪」を解離させているのだ。
この母親たちは子供が立派に成長したことを見ることもできないだろうと思う。子供が立派になったのではなく、立派な私が子供をこうしたのだという理屈になるからである。立派なのは常にこの母親自身となる。だから、子供を尊重も尊敬もできなくなってしまうだろう。
もし、子供が悪くなったら、それは自分のせいではなく、他の何か、誰かのせいだということになる。自分は母親として完璧なのだからである。それで、この母親は悪くなった子供をどうするかと言うと、見事に切り捨てる。悪い子供を見ることは、自分が母親として完全であるという信念をぐらつかせるからだと思うのだが、それに加えて、他者に責任を転嫁する、つまり悪くしたのは誰それだから、その誰それになんとかさせればいいといった見解を取る。自分の中の悪と関わることができないのと同様に、悪い子供とは関わることができないのだ。
そんな自信たっぷりの思い上がった母親、いささか厚顔無恥というか、そんな母親よりかは、母親としての自信が持てず、後悔や自責に苛まれている母親の方が、僕はよっぽど好きである。母親としては完璧ではないかもしれないが、少なくとも、善良な母親である。
こんなことを書くのは、今日のクライアントがみんな人の親であったからだ。何かと親子のことを考えさせられた一日だった。
みんな親として素晴らしいと思うのだが、う~む、僕の言うことはあまり信用してもらえないようだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)