8月19日(月):「被虐待児のその後」ページ作成
「被虐待児のその後」というページを作ろうと思っている。そこでどいうことを書くか、昨日はメモを取っていた。B5用紙に16ページほどになった。それを今日、いくつか文章化する。8ページ分、つまり24枚分、ワードで作成した。空き時間のほとんどはそれで費やした。
サイトのページは、大体、A4で3枚程度を目安にしている。この3枚を書くのに一時間ほどかかる。今日は8時間ほどそれに費やしたことになる。朝から取り掛かり、今、20日の午前4時である。まだまだ書き足りない。
継続していたクライアントが先週、中断することになった。僕からすると利益ゼロのクライアントさんだ。それでも彼を援助していこうという気持ちではいた。
利益ゼロというのは、3回で12000円という契約でやっていたからである。一回当たり4000円ということになる。一回が4000円というと、ここの諸経費に該当する。要するに、僕の利益をカットしているわけだ。
それで、3回ずつの支払いのうち、未消化である残りの回数分を返金してくれと要求されたのだ。僕はそれに応じた。親切からではない。縁を切るためである。その返金が今日であった。一週間近く相手を待たせたのだ。これにはちょいとばかり理由がある。まあ、それはいいとしよう。
さて、夕方、指定していた時刻に現れたのは、クライアント本人ではなく、代理の人である。ああ、なるほど、そうしたか。被虐待者がやる典型的な行動だ。
このクライアントがよく才能ということを言っていたな。才能なんて自分で分かるもんじゃない。周囲が認めるものである。自分にはこれこれの才能があるなんてことを自分で言うのはどうかね。本当にその才能の持ち主ならそんなことは言わないものだ。
それに才能というものは、認識次元の高さを指しているもので、所有されるようなものではないのだ。
加えて、才能の上に胡坐をかいているような天才はいないものである。自分の才能に頼り切っている芸術家なんてのもいないだろう。
彼に才能なんてものがあったとしても、そんなの誰も羨んだりはしない。その才能で金持ちになったとかいうのならまだしも、その才能が一円の稼ぎも生み出していないのだから、そんなもの誰が欲しがるかね。自分にとっても、他者や社会にとっても、なんら利益を生み出さない才能になんの価値があるのだ。
まあ、僕にはどうでもいいことだ。その才能とやらでスターにでも有名人にでもなったらよろし。そんなもん、僕は興味がない。彼が生きていけないということだけに僕は興味がある。
来なくなった人のことはどうでもよろし。「被虐待児のその後」ページのことだ。密かにそのページの宣伝をしておくつもりだったのに、話があさっての方向に向いてしまった。
被虐待者に関するページを作成すると、そのページを見て来談する人が増えるのではないかと心配していた。来談者が増えるのならいいことではないかと思われそうだけれど、被虐待者に関しては、少し事情が違う。彼らに必要なのは育て直しの環境である。僕個人の力ではそれだけの環境は提供できない。ほんのわずか一小部分だけを担うに過ぎない。それだけのものしか提供できないのに、料金はしっかりいただくことになるので、いささか申し訳ないような、後ろめたい気持ちに襲われるような、そんな気分になる。
育て直しの環境って言ったけど、これは単刀直入に言えば、彼らはまともに育っていないということなのだ。身につけるべきものを身につけず、学ぶべきものを学べずに生きてきたのだ。そこをやり直さないといけないと僕は思うのである。
おっと、話がまた脱線しそうだ。そのページを作ったからとてクライアントが増えるとは限らないのだ。むしろ、その逆の結果になるような気がしている。それは僕が書こうとする内容によるのだけれど、それを読んで、ここで受けようなんて気持ちにはならないだろう。今日、書いた部分だけでも、それが分かる。それを読んで来談する人はいないだろうと思う。
だから文章化して、公開すればいいのだ。それに、公開したとて、現実にはほとんど変わりがないと思う。そもそも、被虐待者のような人は、自分に関する文章なんて読まないのだ。過去、僕のところに来た被虐待者はほとんど皆がそうであった。ネットで検索して、ヒットしたところに電話をかけて予約したといった経緯である。そこのサイトをまともに見てはいないのだ。料金や営業時間、定休日なども見ずに予約を取ったりするのである。そういう人たちである。だから気にせず書いていこう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)