8月17日(金):唯我独断的読書評~『イギリス怪奇傑作集』
福武文庫のオリジナルアンソロジーで8篇の作品が収録されている。
僕はこれを1991~92年頃に読んでいる。はっきり言って、内容はまったく覚えていない。でも、常に僕の「いつか読み直す本」リストに挙がっていたものだ。それなりに良質の作品が収録されていたという印象が残っている。
今回、これを機に読み直し、メモと感想を残しておこうと思う。
「園芸上手」―R・C・クック
ボウエン夫人は園芸上手。家の裏庭にはさまざまな植物が生い茂っている。彼女の手にかかれば、熱帯植物でさえ根付く。そればかりか、枯れ木までが成長するといった具合だ。しかも、ここで育つのは植物だけではない。骨も髪の毛も、ここに植えると成長するのだ。ある時、木を伐採しようとして、ボウエン夫人は指を切り落としてしまうが。
面白い。超自然の話かと思いきや、まさか、分身テーマの物語だったとは。見事に一杯くわされた。
「黒い沼地のブラウニー」―ジェイムズ・ホッグ
領主の奥方は評判の悪い女だった。彼女は暴君で、召使たちを虐げる。そして召使たちが音をあげてしまうのだった。そんな領主のところにメロダッハという新しい召使がやってくるが、この召使は今までの召使とは少し違っていた。メロダッハは奥方の仕打ちに何らめげることなく、そればかりか、彼を虐げると逆に奥方の何かが被害を蒙るのだった。怒りに駆られた奥方は、もはや引くに引けず、さらに一層の仕打ちをメロダッハに加えようとしてしまう。
本作も面白い。敵意や憎悪は対象に縛り付けるように作用するものだ。それは相手に対する執着のような形を取るもので、そのために行き着くところまで行かなければならなくなってしまうのだ。引き返すこともできず、引くに引けなくなり、とことんまでやっつけてしまわないといられなくなるのだ。
ところで、本書は英語の原タイトルが記されていないという、非常に不親切なところがあるのだが、本作の原題はどのようなものだろう。「黒い沼地のブラウニー」とは人々がメロダッハにつけた綽名なのだけど、「黒」「沼地」「ブラウニー」と、「悪」を連想させるような言葉がうまく連ねられているように感じる。タイトルも秀逸であるかもしれない。
「ハンサムなレディ」―A・E・コッパ―ド
田舎町タルに住むジョンは、欲もなく、慎ましやかに生きている。妻のキャロラインはそんなジョンになかば愛想が尽きている。ある年、彼らの別宅を一人の未亡人が借りることになった。ベティグローブという名のその未亡人に、やがてジョンは惹かれていく。奇しくも、妻と同じキャロラインという名の未亡人に、彼は恋慕の情を抱くようになる。そして、二人のキャロラインが時期を同じくして亡くなり、ジョンは孤独な余生を送ることになるのだが。
コッパードと言えばラストのオチに定評がある作家だが、本作にもそれが用意されている。恥ずかしながら、このオチを僕はすぐには理解できなかった。でも、ちょっと考えると、なるほど、そういうことだったのかと腑に落ちる。ホラーとか幽霊譚というよりも、善良に生きた男のたった一つの背徳といったような感じで、ほのぼのとした感情が湧いてきた。
「モロウビー・ジュークスの不思議な旅」―ラディラード・キプリング
インドに滞在しているイギリス人ジュークスは、狩りに出た時に砂漠のクレーターに馬もろとも落ちてしまう。そこには何人もの人間が穴居生活を送っていた。そこにジュールスのかつての使用人だったダスもいた。ダスの話では、ここはコレラ患者が生きながら送り込まれる墓場であり、脱出は不可能だということだった。ジュールスの脱出の試みはすでに失敗に終わっていた。彼はここで彼らと一緒に生活することになるが、ダスはここにかつて白人が落ち込んだことがあると言う。その白人はこのクレーターからの脱出路を発見したという。
非常に面白い作品だった。極限状況に落ち込んだ人間を描くと同時に、謎解きや冒険にも事欠かない。しかし、僕が感銘を受けたのは、こういう状況を設定することで、地位・階級の逆転が描かれているということだ。かつてジュールスの使用人だったダスがここでは権威者なのだ。そして、こんな墓場のような場所においても、人間は上下関係を生み出してしまうのだ。
「毒瓶」―L・P・ハートリイ
昆虫学者ジミーはロロ・ヴァーデューから招待を受ける。きっと珍しい昆虫とも出会えるだろうと期待し、ジミーはヴァーデューの城に滞在することになった。ここにはロロとその妻、そして本当の城の所有主でありロロの兄であるランドルフが暮らしていた。彼らはジミーがどのように昆虫を採集し、毒瓶で殺すのかに興味を持つ。
一見善良そうで、何か曰くありげで、ハラにいちもつ抱えていそうなヴァーデュー家の面々が不気味に感じられる。一見、平穏そうで、密かに何かが企まれているという雰囲気が行間からプンプン漂ってくる。生きた昆虫を毒瓶に入れて殺すように、ジミー自身が毒瓶の中の昆虫と同じような立場に立たされてしまう。結末は、幾通りかに解釈できるもので、謎を残したまま終わるところも怖い。
「ラズベリー・ジャム」―アンガス・ウィルソン
ジョニーは不思議な子供だった。いつも一人遊びをしていて、そして、ある時などラズベリー・ジャムを見ると激怒したりする。彼の唯一の理解者はスウィンデール姉妹だけだったが、彼女たちとのある一件、それはラズベリー・ジャムと関係する一件であるが、それ以来、ジョニーは彼女たちを嫌悪するようになった。
ジョニーは、おそらく、感受性が強い上に、人の中に溶け込めないので誰からも理解されないのだろう。スウィンデール姉妹は、聖女のような仮面を被りつつも、好色で、酒飲みで、残虐な一面もある。ジョニーの経験したトラウマは彼の独り「動物農場遊び」に反映されているが、見てはいけない人間の一面、それも彼の自我が耐えられる範囲を超えた一面を彼が見てしまったためだろう。
「スミー」―A・M・バレイジ
クリスマスに集まった面々。童心にかえってかくれんぼをしようと提案するが、ジャクソンだけは反対する。彼はかつてクリスマスに同じようにして子供遊びをした時の経験があるからだ。彼はその話を聞かせる。その時やったのは「スミー」という遊びだった。12人で始めたスミー遊びなのに、そこにはなぜか13人いて、誰も知らない一人が混ざっていたのだった。
スミーとは、かくれんぼと鬼ごっこをゴチャ混ぜにしたような遊びだ。参加者は一枚ずつ紙を取る。白紙の中に一枚だけ「スミー」(It’s me)と書かれた紙が含まれる。それを引いた者が「スミー」となる。部屋を暗くして、スミーだけ先に部屋を出て、どこかに隠れる。後のメンバーは誰がスミーか分からない。その後、メンバーは散り散りになって、スミーを探す。メンバーを見つけたとき、「スミー?」と訊く。スミーでない者は「違う」と答えるが、スミーである場合は無言で応じる。つまり、スミーは喋ってはならず、黙っているということがスミーである証拠となる。スミーを見つけたものは、スミーと一緒に留まる。やがて、他のメンバーもスミーを見つけるので、一箇所にメンバーが集まることになる。最後に集まったメンバーの負けという、そういうルールだ。この遊び、面白いのだろうかと思ってしまった。
ゲームのルールは何にしろ、鬼であるスミーは喋ってはならないというのがミソで、このルールがないとこの物語は成り立たない。大体、途中でオチが読めるのだけど、最後まで物語に引き付けられる上に、予想通りのオチが来ても、やはり怖いと感じてしまった。
「人殺し」―W・W・ジェイコブズ
アンソニーはマートルを殺してしまった。マートルの死体を隠し、埋めるアンソニー。これでマートルの死が表沙汰になることはないだろう。しかし、マートルはアンソニーに安穏を与えない。アンソニーは夜な夜な悪夢に襲われ、夢遊病者のように動いてしまう。
アンソニーを夢遊病のようにさせるのは、マートルの怨念か、それともアンソニーの無意識の良心か。僕は、ユーレイよりも、後者を信じたい。
以上8編。今回読み返しても、やはり良質の作品が揃っているなという印象を再確認した。
本書の唯我独断的読書評は4つ星半だ。どの作品も、面白く読むことができ、印象深く残る。
<テキスト>
『イギリス怪奇傑作集』(W・W・ジェイコブズ他)
橋本槙矩・宮尾洋史 訳 福武文庫
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)