8月12日(火):キネマ館~『ファニー・ゲームUSA』
映画はまずボートを牽引する車の映像から始まる。父ジョージの運転する車で、母のアンと息子の三人家族の平和な映像が入る。
音楽はヘンデルからオペラ曲へ。このオペラはマスカーニ(クレジットされている)の「カヴァレリア・ルスティカーナ」だと思う。男同士の決闘を主題にしたオペラ作品だ。そして、音楽は急遽、デスメタルに変わる。この流れが素晴らしい。調和のとれた音楽から、決闘を主題にした作品、そして激しく暴力的で不調和なデスメタルが唐突にそれまでの雰囲気を奪い去っていく。この後の物語を予期させるオープニングで、よくできていると思う。
ジョージたちはバカンスを楽しみに別荘に向かう途中だった。隣家の人たちが庭にいる。後でボートを下すのを手伝って欲しいと頼む。その時、白服に身を包んだ二人の若者が一緒にいるのを見る。甥だろうとか、様子が変だったなどと話し合う。後になって分かることだが、隣家はすでに「ゲーム」の最中だったわけだ。
自分たちの別荘に到着する。父と息子はボートの準備に。アンはキッチンに。その時、隣家で見かけた青年ポールが玉子を4個分けてほしいと訪れる。気前よく玉子を渡すアン。玄関先で落として玉子を全部割ってしまうポール。割れたので、もう4個くださいと平然と頼む。
アンは仕方なしにもう4個手渡す。その時、ポールがアンの携帯電話をシンクに落として水浸しにしてしまう。ちなみに、ここで携帯電話が使えなくなってしまうことがこの家族の不運となる。
ポールが去る。間もなく玄関先でペットの犬がしきりに吠え立てる。見るとポールともう一人の青年ピーターが玄関にいる。表では犬が吠えている。「犬をつながないなんて不用心だ。犬が苦手なのに」などと、文句を言う。
そこで再び玉子を落としたので、もう4個ください、お宅は買い出しに行くと言ってたでしょう(だから困らないはずだ)と、図々しい要求を出すポール。さらにはジョージのゴルフクラブを目にとめては、いいクラブだ、一発打たせてほしいなどと頼む。
ポールとピーターの傍若無人な振る舞いにイライラしはじめるアン。ジョージが戻ってくる。二人に帰るように言う。ポールの態度の悪さにジョージはビンタをくらわす。怒ったポールはゴルフクラブでジョージの足をへし折る。ここから悪夢のような一夜が展開される。
ポールはジョージたちに賭けをしようと持ちかける。「朝の8時までにみんなが生き残れるかどうか賭けをしよう。僕は生き残れない方に賭ける」と。
賭け事には、自分たちが参加するゲーム式のものと、自分たちが関与しない傍観的なものとがある。どのゲームにもルールや枠がある。また、ゲーム以外の賭け、自分たちが関与しない傍観的な賭けは、その賭けが自分たちの意図の外にあることが前提である。
ポールの持ち出した賭けは、従って、賭けとかゲームの構造を有していないということになる。一家は理不尽な賭けを一方的に押し付けられることになる。何が理不尽かと言うと、この賭けはすべてポールの一存にかかっているということであり、ジョージたちにはチャンスも手段を奪われているというところにある。公正さを初めから欠いているのである。
もし、僕があなたに、「僕が今日のお昼にうどんを食べるか蕎麦を食べるか賭けをしよう。僕は僕がうどんを食する方に賭ける」などと言ったら、あなたはこの賭けに乗る気にはなれないでしょうし、せいぜい「勝手にしたらええやん」くらいでそっぽを向くのではないかと思う。ジョージたちにはそういう選択肢がなく、理不尽で一方的な賭けに巻き込まれざるを得なくなっている。
物語全体にこうした理不尽や一方的なやりとりが満ちている。一つ一つ検討するのも面白いが、煩雑になるだけなので止めておこう。
僕のコンビニでの経験にように、ジョージはポールに交渉したり話しかけたりする。ポールはピーターに伺いを立ててみたりする。つまり、ジョージのコミュニケートに対して、ポールはそれを回避し、同時にピーターを仲間にして2対1の構図を作り出すことによってジョージを立場的に不利に追い込んでいく。そうしたやりとりが随所で見られる。
こういうコミュニケーション場面では、相手とコミュニケートしないということが肝要だ。僕は自分の経験からもそう学んだ。無視するとか沈黙するというのは、実は相手にコミュニケートしていることになる。沈黙というのはあらゆる場面でコミュニケーションを成立させてしまうものだ。だから沈黙よりかは何かを発する方がいい。
つまり、会話はするが、相手の文脈にコミュニケートしないということである。「玉子が割れたのでもう4個ください」―「あら、今日はいい天気ね」、「犬をつながないなんてどうかしている」―「お茶でもいかが」、「明日までにみんなが生き残れるか賭けをしよう」―突然、歌を歌いだす。要するに何でもいい。相手とコミュニケートしながら、相手の文脈とコミュニケートしないものであればどんなものでもいいということだ。
さて、映画自体に話を移そう。この映画は、もともとヨーロッパの作品で、1996年頃に作成された「ファニー・ゲーム」のハリウッド版セルフリメイクである。オリジナル版でも賛否両論が渦巻き、ビデオは発売禁止になったそうだ。それから10年後、同じ監督がアメリカ版を作ったわけだが、内容はオリジナル版とまったく同じなのだそうだ。舞台と俳優がアメリカになっているだけの違いらしい。
監督の話では、ハリウッド映画に対するパロディだということらしい。それは随所に見られる。
例えば、先述の賭けを持ちかけるシーンで、ポールはカメラ目線で観客に向かっても問いかける。「君はどっちに賭ける?」とか「この結末で満足ですか?」などと。こうして観客も彼らにコミュニケートさせられてしまう。
また、アンが隙をついて猟銃を奪いピーターをぶっ放すシーンがある。これを見て怒ったポールは「こんな結末ではだめだ」(つまり、これはハリウッド的だ)と言わんばかりにリモコンを探し、ピーターが打たれる前のシーンまで逆再生してやり直すという、コメディのような場面もある。
また、足を折られたジョージがその後まったく活躍を見せずに終わるというのも反ハリウッド的だし、子供まで被害が及ぶというのもそうだ。「悪」が勝利を収めてしまうというのもそうだ。
ハリウッド映画に慣れ親しんでいる人は、馴染みの展開をことごとく裏切られることになる。逆に言えば、ハリウッドらしさを取り除いてしまうと、映画は不快なものでしかないということにもなりそうだ。
あと、ハリウッド映画でもサイコパス的な犯罪者、シリアルキラーを描いた作品が多々あるけれど、現実のサイコパスは本作のポールやピーターのような感じかもしれないとも思う。
本作は、一応、ホラー映画に分類されるようだ。でも、ホラー特有の残酷な描写があるわけではない。当然、モンスターだのエイリアンだの、心霊現象だのが出てくるわけでもない。それでも、じわじわと追いつめられると言うか、入ってきて欲しくないのに一方的に侵入されるような恐怖感を僕は体験した。よくできた作品だとは思うけれど、お勧めはしないし、心理的にしっかりしていない人が観ると相当影響を受けるだろうと思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
この映画はホラー好きの友達も観ていなかったようで、僕が紹介するとすごく興味を示していた。観ても、あまりいい気分にはならないよと伝えたけど、まあ、スプラッターものなんかも観る友達には余計な忠告だったか。
(平成29年2月)