7月5日:危機が団結を生む

7月5日(月):危機が団結を生む

 

 ブログを書くのは久しぶりのような気がする。

 今月は、おそらく仕事の方もあまり伸びないだろうから、今まで疎かにしていた身辺整理に力を入れていこうと計画している。それで、この一週間近くは身辺の細々したものを整理している。

 

 先日、ワクチンの接種券が僕の所にも届いたけれど、ワクチン不足のために受付を一時中止するとかいう話も持ち上がっている。それならそれで、僕は延期しよう。仮に一回目を首尾よく受けることができたとしても、二回目がどうなるかが不明だ。一応、一回目の接種をした人のために二回目分もキープされているとのことであるらしいが、保存冷蔵庫のコンセントを抜く輩が今後とも暗躍しないとも限らないので、いっそのこと一回目から諦めた方がよさそうだ。

 予定では九月ころから供給が再開されるそうなのだけれど、最初は予約が殺到することだろうから、予約できたとしても、実際の接種は10月か11月になることだろう。いつ接種できるのやらまるで見通しが効かない。

 

 大リーガーの大谷選手の快進撃が止まらないらしい。僕は興味がない。映像を見て思うのは、観客が普通に応援していることだ。アメリカはそこまで日常を取り戻しているということである。同じことがなぜ日本ではできないのか、嘆かわしい限りである。

 確かに、アメリカは世界一の経済大国だ。同じようにできないかもしれない。でも、せめて、台湾やオーストラリア、イギリスなんかと同じことができないものか。諸外国ができていることが、日本だけできていないような気がしてならない。

 日本の衰退とオリンピックのためである。

 

 アベがまた放言したようである。「五輪反対派は反日だ」とかなんとか言い放ったらしい。これはすでに五輪精神に反している言葉である。

 それはともかく、五輪反対派はコロナの感染拡大を懸念しているのだ。反五輪派は人命を尊ぶヒューマニストである。従って、反日ではなく、反非人道主義なのだ。

 もはや五輪中止を叫ぶ人がいない。そういう声が聞かれなくなっている。開催に突き進むつもりだ。そして、開催月に突入しているのに、まだ決まっていないことがたくさんあるというズサンさだ。本当のことを言えば、中止か開催かも決まっていないのである。きちんと議論された上で決定されているわけではないのだ。

 

 アベもガースーも、団結などということを前面に打ち出すようになった。五輪で人々が一致団結するなんてことはあり得ないと僕は信じている。

 人間同士が団結するのは、五輪ではなく、むしろ防空壕においてである。もちろん、防空壕というのは一つの喩えである。祭りごとで団結するよりも、危機や不安で団結する方がはるかに自然の流れなのである。

 このことは社会心理学においても証明済みである。ある実験の被験者を募集する。一方のグループには、この実験はなんの危険もないと伝え、もう一つのグループでは少し痛みが伴うなどと不安を喚起する内容を伝えるのだ。彼らが待合室でどのような行動をするかを観察するのである。後者のグループではより人と近づこうとする傾向が見られたというものだ。

 人は不安や危機で結びつく方が、愛情や友情で結びつくよりも、圧倒的に多いと僕は思っている。そして、それが自然な結びつき方だと思っている。危機で団結して、そこから相互の信頼や友愛も生まれるのである。五輪のような祭りではそれは無理である。仮に可能であったとしても、わずかなものである。

 

 さて、アベがひっかきまわした後始末をガースーがするような形になっている。その点、多少ともガースーに同情したくもなるのだけれど、両者とも現実検討力が壊れているのだ。これはもう精神病レベルのものだと僕は思っている。今のこの状況を見て、まだ五輪は通常通りに開催できると信じているのだから、相当現実が見えていないか、現実否認しているかである。妄想の世界に生きているのである。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

 

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