7月30日(月):落ち着いた一日
今日は朝からよく動いた。出勤前に自宅の身辺整理も少しやっておく。一日15分くらいずつそれに充てることにしている。
駅ではリハビリ運動をちゃんと2セットやった。最近、足に力が入るようになってきている。痛みを覚えることはあっても、カクカクと膝が笑うことが少なくなったような気がする。
電車の中ではミステリを読む。専門書を読んでもいいのだけど、軽い読み物の気分だった。ミステリを読むのは僕の趣味だ。仕事も趣味もキッチリやろうと思う。
銀行に行って記帳し、入金しておく。ついでにタバコを買うがてら両替を済ませておく。
室内を掃除し、サイト原稿を書き、一人目のクライアントを迎える。
落ち着いて待つことができている。だからと言って気が抜けているわけでもなく、適度な緊張感を緊張せずに経験できているといった感じだ。
今日の予定は、面接以外では、明日が2回目というクライアントの初回面接分をもう一度聴きなおすこと。どうも今ひとつ僕の中で不明瞭な部分があるので、それを突き止めること。これが大きい仕事だ。
それにしても、今日は落ち着いて一日を過ごすことができている。重荷を降ろせたことが大きいと感じられている。僕にたまらなく負荷をもたらすクライアントと縁が切れたことによる。この人と面接した後、僕はたまらなく自殺衝動に襲われる。それが苦しいので、この人と面接を組む時には時間的な余裕、準備時間が僕には必要なのだが、この人はそれを与えてくれなくなっている。僕は僕の身を守るために、少しこの人と距離を置かざるを得ない。このことをこの人に伝えても無意味だろうし、理解されもしないだろう。
結局、この人は僕を罵って、それで関係が終わりとなった。それならそれでいい。この人の人間関係はそういう形で終わるのを常としている。常に相手が悪いという形で終わるのだ。でも、それは間違っている。この「悪い」はこの人にあって、この人について回るものだ。だからこの人が誰と人間関係を築いてもいつかそれが頭をもたげることになる。
このことを理解するには、自我が相補的に働くということを理解しなければならない。つまり、一方の自我において機能していない部分や切り離されている部分が、他方の自我において機能するということだ。こうして二人で一つの自我機能を果たすので、この場において、一方は完全な自分を経験することだろう。十分に機能する自分を経験するだろう。しかし、それは相手の補完性によってもたらされているものである。
問題はその後だ。この場の経験が少しでもその人に取り入れられると、相手が受け持っていた機能、つまりその人の自我において機能していなかったり解離されたりしていた部分が、その人の中で活性化してくる。この人はそれを自ら背負わなくてはならなくなる。
僕はその人との面接後、ひどく疲れたり、あるいは逆に苦行から解放されたかのような安堵感を覚える。ひどいときには厭世感情に支配され、衝動的に自殺してしまいそうになる。もし、僕が他の人たちと会ってもこういう経験をせずに、この人と会った時にだけこれらを経験するということであれば、これらの経験はその人によって、ないしはその人との関係によって僕にもたらされたものであると仮定することができる。この仮定に基づけば、僕の中に生じたそれらの要素はその人に属するものであるという仮説が可能となる。
あくまでも仮説である。その人が悪感情を自分から切り離す。その部分は僕が担うことになる。そして、僕を通して、今度はこの人みずからがこの悪感情を経験するようになる。この人はこの悪感情を外部のものとして経験する。こうして外部の人や世界が悪に満ちていくことになる。
本当の治療は、外部からもたらされるとされるこの感情が自分の中にあるものであり、自分の中で生み出され続けているものであることを知っていくことだと僕は考える。この人にとってそれは受け入れがたい治療法であることを承知の上でそれをしていくことになる。
この人はこの人自身が思っているほど善良な人間でもないし、激しい恨みを内に秘め、人を攻撃せずにはおれない部分を持っているのだ。僕たちは自分の中にそういう傾向や部分があることを知っている。知っているから監視することも、飼いならすことも可能になっていくのだ。これを切り離しているような人こそ恐ろしい。
つまり、完全無欠なほどの善人がいるとすれば、その人の周囲の人間は悪人にならざるを得なくなる。この人の悪が周囲に投影され、この投影に同一視しなければ、つまり自分が悪にならなければこの人との関係は築けなくなる。この善人にとってみれば、周囲が悪人になるだろうが、その悪はこの善人に属するものである。しかし、この善人は生涯自分のそれに気づかないかもしれない。こうしてこの善人は悪の中で孤立奮闘してきた偉人として自分を意味づけるだろうけど、本当は善人どころか、普通以下の人間なのである。
ああ、くだらんことを綴ってしまった。このまま続けていくと、果てしなく文章を綴ることになってしまいそうだ。いい加減に止しておこう。
今日は比較的安定した自分を経験できている。本もよく読むことができた。こういう日がコンスタントに続けられるといいのだけど、現実はなかなかそうもいかない。生きているといろんな感情体験をしてしまうものである。動揺したり、突き動かされたり、穏やかではいられない時も生まれる。それもまた受け入れなければならないことのようだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)