7月21日(月):過去志向
(読書三昧)
今日は三連休の最終日だ。この三連休というのは曲者で、普段の土日よりヒマになる傾向がある。今日はほとんど仕事がなかった。その代り、昨日は休ませてもらったし、土曜日にそれなりに集中してクライアントが来てくれた。
昨日、ほとんど本が読めなかったから、今日はその分を取り返すかのように本を読んだ。また、職場にパソコンを持っていかなかった。初期の頃はパソコンなしでやっていたのだ。それを思い出そうと思ったのだ。
パソコンがないと、他のことで時間が使えるということにも気づいた。土曜日のクライアントの記録を、手書きで残す。今までもそうだったけれど、手書きで書いていると、静かだということにも気づく。
本は、『愛と意志』(ロロ・メイ)の第3章。これは先週から紐解いている本だ。夫婦関係のクライアントと会っていると、もう一度愛情というものを勉強する必要を感じていた。それでこの本を再度読むことにした。
今日は哲学の気分だった。そこで『哲学入門』(アンリ・ベルグソン)を読み、『二コマコス倫理学』(アリストテレス)の第1巻を読む。後者は10巻から成るが、一日一巻ずつ読んでいこうと思う。
臨床的なものとしては、『臨床精神療法』(ベネデッティティ)の第3部を読む。これは解釈に関しての臨床的研究の部分だ。この本からは教えられるところが多い。僕の愛読書の一冊である。
あと、狂女に関する評論を読んだ。近松門左衛門の浄瑠璃に登場するお夏に関しての文章だった。それを読んで、『緋文字』(ナサニエル・ホーソン)を読み始める。前半というか、半分近く読み終えた。
(音楽)
子供の頃は、お小遣いでレコードを一枚買い、それを盤が擦り切れるほど聴いたものだった。そういうレコードは僕の中で愛聴盤になっていく。
大人になってから、そういうことをしなくなった。これはまとめ買いをしたり、セットになっているものを買ったりするからだ。
こうして、一度に複数枚CDを買うと、よく聞いたアルバムとそうでないアルバムとが出てくる。
今月から始めたことだけれど、そうしてあまり聴くことのなかったCDを一枚、週替わりで職場に持ってきて、一人でいる時に聴くということをしている。一週間、そればかりを聴くのだ。来週には別のアルバムを、やはりそればかり聴くのだ。
一週目はブラック・オーク・アーカンソーの「If An Angel Came to See You,Would You Make Her Feel at Home」というアルバムを選んだ。5枚組のボックスセットで、これだけはあまり聴いていなかった。
先週はブルー・オイスター・カルトの「カルトサウルス・エレクタス」を聴いた。
今週はアリス・クーパーの「Hey Stupid」に決める。今日、二回聴いた。
アリス・クーパーは好きだけれど、このアルバムはなぜかあまり聴いていない。91年のアルバムらしい。
91年と言えば、僕は大学生だった。当時のアルバイト先で、アリス・クーパーが好きだという女子高校生がいた。彼女が貸してほしいと言うので、僕は「Billion Daller Baby」を貸してあげた。彼女はライブも行っており、その中の曲をアリスが歌ったということも教えてくれたのを覚えている。
「Hey Stupid」を聴いて思い出す。あの頃、彼女が「ヘ~イ、ヘイ、ヘイ、ヘイ」とよく口ずさんでいた(ような気がする)ことを。
「Die For You」はこのアルバムに入っていたのか。じっくり聴いてみると、なかなかいい曲ではないか。カラオケにも入っている曲だ。
その他の曲も、全部で13曲入っているので、全部覚えているわけではないけれど、いくつかいいなと感じた曲もあった。これからまだまだ良さを見出すことができそうなアルバムだ。
アリス・クーパーはやはり70年代前半の第1次黄金時代の頃が好きだったので、70年代後半、80、90年代のものは少し敬遠してしまっていた。それがこの「聞かず嫌い」を助長していたのだと感じている。でも、「Trash」だけはよく聴いたけど。
(過去志向)
最近は昔のことをいろいろ思い出すことが増えた。今日読んだ本も、みな初読ではないのだ。かつて読んだものなのだ。音楽もそうだ。新しく購入するのではなく、以前に購入しておきながらあまり聴かずに終わったアルバムを聞き直しているわけだ。あたかも過去を取り戻そうとしているかのように。
昨日の、奈良から京都へ帰るまでの話もそうだ。体験しているのは現在だけれど、いろいろ過去のことが意識に入り込んでくる。
今、気持ちが過去に向いているのだなと感じる。このブログでも最近は過去のことを書く分量が増えたような気がする。
先述のアリス・クーパーだってそうだ。91年当時にあのアルバムが愛聴盤になっていたら、僕もコンサートに行っていたかもしれない。彼女と一緒に行っていたかもしれない。人生がいろいろ変っていたかもしれない。そんな想いに駆られる。
僕が悲しくなるのはこういう時だ。もっと違った人生だってあっただろうに、他にいろんなこともできただろうにという気持ちに襲われる時だ。僕は決して自分のこれまでの生を後悔しているわけではない。ただ、かつてあった可能性、それも今は失ってしまった可能性のことに気持ちを寄せると、悲しくなるのだ。
これからの僕にも可能性はある。つまり、今の僕にも可能性は残されている。けれど、その可能性は若い頃のそれとは異なるものだ。僕が嘆いているのは若い頃のそれを喪失したことだ。今では取り返すことのできない事柄がそこにはあるからだ。
湿っぽい話になりそうなので、今日はそれは展開しないでおこう。いつか、別の機会で述べることができればと、そう思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
時間は流れていくものではなく、積み重なっていくものだという認識が強いので、僕は過去志向がそんなに悪いことだとは考えない。過去に積み重ねてきたことをきちんと見なければ、将来を見据えることもできないとも思う。
(平成29年2月)