7月20日(日):奈良から京都へ
(うっかり)
今日は前々から予定が入っていたので、仕事の方はお休みするということに決めていた。今朝になって、その告知をしておくのを忘れたことに気づいた。
昨日、一瞬、そのことを思い出したけれど、後回しにしたせいで、忘れてしまった。
こういう「うっかりミス」を最近はやってしまう。よろしくないことだ。
(奈良から京都へ)
今日は結局、奈良の方まで行って、そこで解散となった。僕は独りで京都に帰る。奈良から京都までの近鉄電車の旅をご一緒に。
車が混んでいて、まだ手前だけれど学園前駅を通るので、そこで車を降りて電車に乗った方が速いかもと言われて、じゃあ、そうする、とあっさり受け入れる。
そうして学園前駅で降ろしてくれた。すぐに電車に乗るような野暮なことはしない。まずは駅周辺を歩いて、そこがどういう地域かを考える。賑やかなのは本当に駅の周辺だけで、少し離れると住宅街という感じだった。それは長く住んでいる人が多いということなのだな。人の出入りが激しい場所なら、マンションとかがもっと建っているはずだ。
ちょうど電車が来たので、僕はそれに飛び乗った。もう少し見て回りたかったけれど、帰りが遅くなるのも疲れるからだ。
あやめ池駅を通過する。ここで以前、カウンセリングの研修というか、合宿に参加したことがある。あの時、帰りのあやめ池駅から西大寺駅まで、一人の女性参加者と一緒になった。確か、僕より一つ年下の女性だった。一年間、同じクラスに所属していたのに、お互い言葉を交わす機会もほとんどなかったな。
彼女は今は何をしているだろう。臨床家になるにはか弱すぎる女性だと感じていたのを覚えている。幸せになっていればいいなと思う。もう、当時のクラス仲間とは何の接点もなくなってしまったけど、みんなのことは今でも覚えている。
次に、近鉄大和西大寺駅がすごく変わっていたのに驚いた。駅の構内に、土産物屋さんやちょっとした飲食店のあるのは知っていたけれど、スーパーがあって、その中でカフェとか飲み屋とか、飲食できる店などが入っている。
平城駅前の神社にも行ってみたいと思っていたのを思い出す。
高の原駅手前、図書館があるのに気付いた。これもいつか行ってみよう。
興戸駅から見えた。あの変なお店は今もまだあるようだった。
新田辺駅。僕とは全然関係がないけれど、新田辺カウンセリングルームとかいうのが駅から見える。今日は見ていなかった(反対側を見ていたせいで)けれど、今もされているのだろうか。
大久保駅辺りはちょっと歩いてみたい感じがする。僕にはちょうどいいくらいの賑やかさのような雰囲気を感じる。
向島駅から種智院大学が見える。講義を受けに一度だけ行ったことがある。道が分かるかなと不安だったけれど、田んぼの中にデンと構えている校舎は、方向音痴の僕でも迷わず見つけることができたのを思い出す。今も、環境はあまり変わっていないようだった。
桃山御陵前駅に達する。これは明治天皇陵らしい。一度訪れてみたいと思いながら、未成就のままだ。
竹田駅。僕の兄が勤めている店がある。兄のツケで晩御飯を食べて帰ろうかなどと考えるが、面倒なのでスルーする。
東寺駅の手前。駅に到着する直前だ。東寺の五重塔と愛宕山が並ぶ瞬間がある。以前もそれに気づいて、今度、ここを通る時には絶対写真に撮ろうと決めていたのだった。よろしくないことに、これもすっかり忘れていた。
そして終点の京都だ。京都駅はたいへん人が多く、賑やかだった。三連休というのもあるだろうけれど、やっぱり、観光客が多く、外国人をたくさん見かけた。
振り返ってみると、行こうと思っていた場所ややろうと決めていたことなど、それらがいかに達成されずにいるかに思い至る。さらに、新たにそういうのが加わるのだから、混乱するのも当然かもしれないな。
(兄の転職)
帰宅すると、一番に僕の耳に飛び込んできたニュースが、兄がまた転職したというものだった。
ホテルマンだった兄は、ホテルからホテルへ、ホテルのレストランへ、そして自分の店へと転々としてきた。その後は僕も詳しく知らない。東山の方で雇われたり、錦で働いたりした後、今回の竹田に、そして今度は祇園らしい。いずれも飲食店だ。
僕は高槻で開業してから10年になろうとしているけれど、その間に兄は5,6回転々としている。10年前には兄はまだホテルで働いていたように思う。それから自分の店を持ち、その店を移転させたのだ。それが二軒目の店だ。その後の足取りは、弟の僕でもはっきり知らないありさまだ。
でも、さすがにローリング・ストーンズのファンだけに、兄は「転石苔むさず」を地でやっているような感じだ。
「転石苔むさず」(Rolling Stone Gathers No Moss)という諺は西洋と日本とでは意味が真逆になると習った覚えがある。
転がる石には苔が生えず、いつまでも輝いているというのが西洋での意味らしい。日本では、転がる石のようなことをしていると何も身につかないという意味になるそうだ。だから、日本の方が否定的な意味合いが濃いのである。
でも、これは本当に真逆のことなのだろうか。いろんなことを身につけている人間は、もはや輝きを必要としないものではないか。また、輝きを放つ人は、何一つ身につけることなく純真に、ただ転がっているだけというくらい純真に、生きているだけなのかもしれない。そうすると、同じ現象を異なったニュアンスで表現しているだけなのかもしれない。
クライアントの中にも「自分はもっとキラキラしていたい」と望んでいる人がおられる。それを望む人は、僕の経験した範囲では、まず、社会的に生きることができていない人たちだった。生きていくのに必要なものを十分に身につけてこなかった人たちだ。輝きを所望するのは、案外、そういう人たちなのだと僕は思った。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
兄のことで家族がとやかく揉めていた時期だったのを思い出す。僕にとっては、もう、どうでもいいことだった。
(平成29年2月)