7月10日(金):歯車と潤滑油
あれはいつだったかな。正確な日付までは覚えていないけれど、比較的最近、僕の飲み友達が言った言葉がある。会社員である彼は自分は会社の歯車だと、そういうことを言ったのだった。
僕は思う。歯車ならいい方じゃないかと。少なくとも歯車は存在感がある。というか存在が目に見えている。歯車の仕事は決して悪くはないものだ。
僕はというと、歯車どころか、歯車をスムーズに動かす潤滑油のようなものだ。グリースのようなものだ。僕の仕事はそういうものだ。
一人の父親に登場してもらおう。僕のクライアントだった父親だ。この人は性格的にちょっと問題のある人だった。要するに、それは、彼が非常に怒りっぽいということなのである。彼はその性格のためにこれまで対人トラブルを起こすことも多かったのだ。
それだけでなく、彼は家族の中で孤立していた。母親と娘がいたのであるが、家族は空間的には同じ家屋にて寝食をともにしていたのであるが、心理的には家族は父親とは断絶状態である。その状態が長く続いていた。
ある時、娘が父親にちょっと話があると言って来た。彼はそれまでしていた仕事の手を休め、娘の話にじっくり聞き入った。娘はこれまで父親のことで思っていたことのすべてを打ち明けた。その話を聞いて父親は我が身を恥じたようである。父親は娘によってやり直す決心をしたのだ。
これだけ見ると、カウンセリングなんて意味がなかったように見えるかもしれない。娘が父親の目を開かせたのである。カウンセラーなんか役に立たなかったように見えるかもしれない。
しかし、ここに注目する必要がある。これまで父親とは言葉を交わそうとしなかった娘が、どうして父親に話しをしに行こうと思い立つことができたのか。娘の話を父親がじっくり聞くことができたのはなぜか。加えて、この父親が娘の話を素直に受け入れるようになれたのはなぜか。ここにカウンセリングの意味があったのだ。
正直に言おう。僕はこの父親が苦手だった。最初はこの人と会うというだけで気分がブルーになることも多々あった。いつごろからか苦手意識が僕から消えていった。そして、最初の頃よりも付き合いやすくなったなあと感じるようになった。僕がそういう感じを抱くようになって数か月後に娘のこの行動が見られたのである。
僕は彼の変化に家族より先に気づいていた。定期的に会うから変化が見えやすかったのかもしれない。毎日一緒にいると却って見えにくいのかもしれない。父親の変化が先に起きているのである。
潤滑油の仕事とはこういうものである。その仕事は決して表に出ないのである。
よくカウンセラーの適正ということが言われるのである。こういう人はカウンセラーに向いているとか向いていないとかバカで無意味な議論を繰り広げる人たちである。
僕はどんな人でもカウンセラーにはなれると思っている。短気な人は向いていないと思われるかもしれないけれど、そんなことはない。その短気を活かしたカウンセリングをその人はするだろうと思う。自分の特性を磨いていけばその人なりのカウンセリングができるようになると僕は思っている。短期療法とか時間制限法を採用する人はけっこう短気なカウンセラーじゃないかと思ったりもする。人それぞれが自分の持ち味を伸ばし、その人なりのカウンセリングを実践できる。だからカウンセリングは面白いと僕は感じている。
でも、たった一つだけ適性に関することを言っておこう。もちろん、これは僕の個人的な考えである。有名になりたいとか、目立ちたいとかいう人はカウンセラーには向かない。カウンセラーというものはクライアントの人生の表舞台に立ってはいけないのだ。常に裏方でなければならない。
陽の当たることのない仕事である。常に裏方の仕事である。そして、一生日陰者の人生を送る覚悟がないとカウンセラーには向かないと僕は思っている。
飲み友達よ、歯車はましなのだ。そこはまだ陽が当たる場所なのだ。その存在もその働きも、人に見てもらえる「部品」なのだ。だから友よ、贅沢を言うんじゃない。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)