7月1日:文献の中の人たち~喜楽家茶ら平

7月1日(木):文献の中の人たち:喜楽家茶ら平

 いろんな本を読んでいると、そこに魅力的な人物と遭遇することがある。文献の中でしか出会うことのない人たちだけれど、僕が魅力を感じる人のことは書いて残しておきたい。今回は無形文化財芸を編み出した幇間である。「旅と推理小説」より。

 昭和30年代頃まで、お座敷で働く幇間(ほうかん。以後ホーカンと記述)と呼ばれる人たちがいた。「たいこもち」と同一視されるが、厳密に言うと両者は異なる。たいこもちは、お座敷を盛り上げるために太鼓をドンドンと叩く人たちだ。言うなれば、賑やかし屋であり、現代で言えば音響さんのような立場の人である。一方、ホーカンはお座敷で芸を披露する人たちである。こちらはれっきとした芸人である。

 どの世界、どの業界にも、偉人とか伝説的な人はいるもので、ホーカンの世界も例外ではない。喜楽家茶ら平もそんな一人である。

 茶ら平がホーカンの世界に身を投じたのは35歳のときだった。茶ら平は、官吏の父を持ち、お坊ちゃん育ちで、それまでサラリーマン生活をしていた。堅気の世界で生きてきた人だった。それが、一度、バクチで逮捕されて以来、世の中がイヤになり、堅気の生活には戻らず、ホーカンの世界に飛び込んだという経歴の持ち主である。一回、ブタ箱に入ったくらいで世を捨てるなんて、なんて甘ちゃんなんだと思うかもしれないけど、茶ら平がホーカンになったおかげで、現在僕たちにも馴染みの芸が生まれたのだから、世の中なにがどう転ぶか分からないものである。

 通常、ホーカンになるには師匠に弟子入りすることになる。半年ほど付き人をやり、師匠から見込まれれば弟子になる。弟子として5年奉公し、そこで座敷の礼儀作法や芸を叩き込まれる。その後、礼奉公を経て、さらに5年程度、師匠から離れてひとり立ちする。それで師匠に認められれば、「お披露目」式が催され、ようやく正式なホーカンとして、一人前のホーカンとして認定されるわけだ。

 一人前になるまでに10年以上かかるので、35歳の茶ら平を弟子にする師匠なんて一人もいなかったそうだ。弟子入りをいつも断られる茶ら平は、どこにも弟子入りせず、師匠を持たずに一人で身を立てなければならなかった。

 「それまでまともに人前で正座したことなんてなかった」という茶ら平だ。座敷に飛び込んで、芸を披露するにしても、多くの困難があったことだろう。師匠から仕込まれたものも、教えられたものも、何も持たずに現場に飛び込むことになるのだから、たいへんだっただろうと思う。

 師匠から譲り受けるものもない茶ら平は、自ら芸を開発しなくてはならなかった。苦労の末、編み出されたのが「獅子舞」芸だった。獅子舞芸は人気を博し、座敷の人気芸になる。茶ら平の知名度も上がり、茶ら平に弟子入りする人たちも現れるようになった。

 やがて、日本は戦争に入る。茶ら平一門は慰問団を結成する。座敷ではなく、軍隊を巡り、軍人の前で芸を披露するようになる。そんな時、総理大臣官邸から獅子舞芸をやってくれと依頼される。茶ら平は、当時の総理大臣であった東条英機の前で獅子舞芸を演じるほどにまでなったのである。この時のエピソードは次回に書こう。

 終戦後、茶ら平は進駐軍慰問をするようになる。今度はアメリカ兵の前で芸を披露するようになったわけだ。マッカーサー元帥の前で獅子舞をやってみせたら感謝状を贈るとも言われたが、茶ら平は「そんなもの読めねえから要らねえ」と突き返し、「そんなものよりタバコくんな」と言ってアメリカタバコをせしめる。タバコの吸えない時代に、アメリカタバコをプカプカ吸っていい気分だったそうだ。

 同じく戦後、茶ら平の案出した獅子舞を無形文化財に登録しようという機運が生まれた。自分の編み出したものが文化財に登録されるなんて、通常なら名誉なことと思われるだろう。でも、茶ら平はこれにも「ノー」を突きつける。

茶ら平は言う、「あたしには仲間がいます。仲間のおまんまの食い上げになることはできやしません」と。つまり、獅子舞芸が文化財に登録されると、それが座敷の引っ張りだこになり、それによって他のホーカンたちの仕事を奪うことになるので、同業の仲間に対してそんなことできないと言っているわけだ。

 ホーカンの世界にも、この時代には骨のある男がいたんだなあという気になる。M1グランプリに輝いたと言って喜んでいる現代の芸人たちがなんとスケールの小さいことかと思えてくるほどである。

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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