6月26日(木):連想のままに(後)
(僕の変化)
別に僕は口達者な人間というわけではないのだ。要は「NO!」が言えないだけのことなんだ。「要らん」とか「止めい!」とか「ダメだ」とか「アカン」とか、そういったことがストレートに言えないだけなのだ。
僕の文章もそうだ。以前に書いたものを読み直すと、かなり断定文が多いなと気づく。今は「~と思われました」「~だと私は推測しました」と、かなりぼやかした感じで書いていることが多い。あまりはっきりと断定することは避け、僕の個人的な印象とか感想といった感じの表現を多用するようになっている。僕の気が弱くなっているのか、僕自身が不鮮明になっているのか、どちらもありそうだ。
(今日の午後から)
今日は予約通りにクライアントさんたちも来てくれた。こうして会えるのが嬉しい。
クライアントとは長い付き合いをしていきたいという気持ちが僕にはあるけれど、でも、いつか別れる日が来るということも覚悟している。今日がお会いする最後になるかもしれないから一回一回を大事にしよう。
今、来られているクライアントたちはみんなしんどい状況の中で生きておられる。僕は尊敬したくなる。僕だったら耐えられないと思ってしまう。しんどい状況の中で、なんとか光明を見出そうと模索している人たちだ。なんでも手っ取り早く解決してしまおうと考えている人たち、それはクライアント予備軍のような人たちから一部の専門家にまでわたるけれど、その人たちには是非僕のクライアントを見てほしいという気持ちになる。真剣に生きることがどういうことなのか、その人たちにも分かるだろうから。
夕方、ようやく昼食にありついて、先ほど、本日最終のクライアントをお見送りしたところだ。
良くないことだけれど、僕は時々昼食を忘れてしまう。今日は、銀行回りをしてから、午後のクライアントが来られるまでずっと本を読んでいた。食事のタイミングをそれで逸してしまったのだ。規則正しい食生活をと思うけれど、どうも上手くいかないな。
(僕の最初のクライアント)
今日、来られたクライアントさんの中に、一人、昔出会ったクライアントを思い出させる人がいる。
思い出すのは、研修時代に、僕が最初に受け持ったクライアントだ。当時、僕は28歳くらいだったか。
クリニック勤務時代に面接の経験はいくつか持っていたけれど、それは先生の下で行った面接で、僕のクライアントという感じがしなかった。どこか先生方の代理という感覚が強かった。
研修時代にお会いしたクライアントは、したがって、僕にとっては初めて自分の担当したクライアントという感覚が強かった。中でも一番最初のクライアントとの面接は思い出深い。
ある年の4月に研修に入った僕は、幸運にも、すぐに最初のクライアントに恵まれた。まだ研修機関の右も左もよく分かっていない状態で受け持ったのを覚えている。
予約されたのは女性だった。すごく緊張していた。前日はそれで眠れないくらい緊張したのを覚えている。
朝の10時から面接なのだけれど、8時半くらいには面接室に入って、ソワソワしていたように思う。とても落着けなかったのだ。そして、この後来られるクライアントのことを考える。どんな人が来るんだろうとか、女性のクライアントだけれど何歳くらいだろうか、ずっと歳の離れた人だったら僕に失望するんじゃないだろうかとか、不安でいっぱいだった。
10時になってその人が来た。大学生だった。失礼な言い方だけれど、可愛らしい女子大生だった。彼女は就職活動が行き詰って相談に来られたのだった。
良かったと、僕は思った。年齢的に近いということで一つ安心した。そして、彼女が経験しているようなことを、僕も多少は経験したし、また、見てきている。多分、全力でかかわったと思う。終わったあとはヘトヘトになっていた。でも、同時にどこか僕自身にも充実感があったのを覚えている。今でも、あの感覚を忘れないようにしないといけないな。
彼女とはその後数回カウンセリングを行った。今から考えると、拙い点がゴロゴロ見つかるのだけれど、毎回、全力だった。
今でも、振り返ってみると、運が良かったなと思う。僕にとって一番最初のクライアントだったけれど、いいクライアントと巡り合えたと思う。悪夢のような体験を最初にしてしまっていたら、僕はこうして続けていなかったかもしれない。
よく考えると、研修時代には何人ものクライアントさんとお会いする機会に恵まれた。みんなそれほどイヤな感じの人たちではなかった。好きになれる人たちばかりだった。すごく恵まれていたんだなあって、今になってそう思う。
(今日読んだ本)
『たった一人を確実に振り向かせると、100万人に届く』(阪本啓一著)
マーケティングに関する本。ビジネス書も読んで勉強しようと思うのだけれど、いかんせん、こういう本は退屈極まりない。100ページほど読んだが、いいなあと思うのはわずかだ。ああ、でも、経営のことも勉強していかないといけない。曲がりなりにも経営者だから。
『われわれ自身のなかのヒトラー』(ピカート著)
この本は素晴らしい。ビジネス書よりもこういう本の方が僕には親しみが持てる。1946年出版とあるから、戦後間もなくという時期だ。そんな時期にこういう本が出たとなると、当時は本当に衝撃的だったろうなと思う。
ここで書かれていることは、むしろ21世紀の日本の状況ではないかと僕は思う。ヒトラーを他の指導者、カリスマ的な人物に、ラジオをインターネットに替えて読むと、今の日本がこれではないかと感じられてくる。
社会、および人間が連続性を失い、その瞬間にしか生きなくなる。そこで人間に生じることは何なのかが考察されている。人間、社会に関する思想であり、歴史の本でもある。
『境界パーソナリティ障害』(J・G・ガンダーソン著)
境界例に関して、僕はこの本を基礎教材にしている。自分で言うのはおこがましいことだけれど、著者の立場は親近感を覚える。カーンバーグはバリバリの精神分析理論で説明しようとするし、マスタースンは一部の境界例にはすごく当てはまる感じがするけれど、どこか偏りがあるようにも感じられる。
最近、あるクライアントさんと面接していて、もう一度この本を紐解こうと思ったのだった。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
これはブログ用にかいた文章ではなかったはずだ。何か他の目的で書いたものだ。だから内容が重複している個所もある。以後、やはり同じようなことが起きると思う。ブログと並行して書いていたのを、今ではブログに収めているので、通して読まれる方には煩雑になるかと思う。ご了承願いたい。
(平成29年1月)