6月26日:スパコン

6月26日(金):スパコン

 

 このネタを書こう書こうと思いながら日だけが過ぎてしまった。「富岳」なるスーパーコンピューターがコンテストで世界一になったとか云々とかいう話だ。

 僕はスパコンの何がすごいのかちっとも分かっていない人間なので、こういう話題は口を慎まなければならないのだろう。でも、書いて残しちゃう。

 そのスパコンで、例えばくしゃみなんかによる飛沫をシミュレーションした。これだけの飛沫が飛び散り、拡散するというのをCGで見せてくれる。で、それだけなのだ。何がすごいのと思ってしまう。ただシミュレーションをしたというだけである。

 もし、くしゃみをした人がコロナ感染者だとして、その飛沫中にどれだけのウイルスが拡散するのか、拡散したウイルスのどれほどが空中に漂い、どれほどが落下するのか、さらには対面にいる人にそれがかかる量はどれくらいか、隣にいる人にかかる量はどれくらいか、斜め向かいの人にかかる量はどれくらいか、他に室内にいる人がそれにふれる率はどれくらいなのか、何一つとしてシミュレーションされていないのである。それでいて人はそのスパコンをすごいなんて言ってもてはやすのだから気が知れない。

 コンピューターにできることと言えばその程度のものである。計算だけなのだ。情報を集積して、確率計算するだけのことしかできないのだ。何もすごいことはない。

 人間はもっと優れている。人間はコンピューター以上である。人間は形而上学的な問いを立てることができ、またそれについての哲学的思想を残してきた。コンピューターは形而上学を扱えない。

 

 形而上学というのは、アリストテレスの第一哲学のことであるが、これは日本語で示されるよりかは英語で示される方がはるかに分かりよい、

 形而上学に該当する英語は「metaphysic」である。これは「メタ」と「フィジック」の二つに分けることができる。

 「フィジック」は物理のことである。物体とかそういう「物」のことだ。身体もまた「フィジック」である。

 「メタ」は「超える」とかいった意味合いがある。あるいは「パラ」に近い概念でもある。それを超えていること、それと交わらないことといった意味である。

 従って、メタフィジックは物理的なものを超えた領域のこと、あるいは物理的な事柄と交わらない領域のことといった意味である。

 哲学で形而上学といえば、まず、神の問題がある。続いて精神とか魂とかいった領域の事柄がある。そうした領域の学問を形而上学と言うわけだ。

 どんなコンピューターも形而上学を扱うことはできない。そもそもコンピューターは問いを立てるということはないし、形而上学的な問答に適したツールではないと僕は思っている。それは人間でなければ出せない問いであり、人間でなければ考えることのできない問いである。

 

 さて、どんなコンピューターも計算する。そして答えを出す。人間が計算しても同じように答えを出す。人間の計算の方が時間がかかるというだけで、正答を導くことに関しては両者に違いはない。僕はそう考えている。

 結局、コンピューターがやっているのは我々の思考の短縮に過ぎないのだ。飛沫のシミュレーションも人間が手作業で検証すれば、やはり同じ結果を導いただろうと思う。世界一のコンピューターの何がすごいのか、僕にはまったく意味不明である。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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