6月23日:劣等感について
今日はまずまずの一日だった。これから夜勤を控えているけれど、それだけが余分だ。いい加減、この副業も辞めたいと思っている。
一日8時間働いて、3時間ほど本を読んだり勉強して、2時間ほど何か書く。こういうのが僕の理想の一日だ。贅沢を言えば、1時間音楽をやるというのもそれに加えたい。でも、なかなかその通りにはいかないものだ。
いろんなことが足枷になる。雑用が次々に降りかかってくる。一つ一つこなしているものの、一つこなせば、次の一つが新たに加わるという感じだ。
今日から、劣等感ということについて書いている。これはこのサイトに掲載するか、電子書籍にするか、あるいは未公表のままにするか、まだいずれとも決まっていない。
今日のクライアントの話を聞いて、劣等感をテーマに書こうと決めた。いや、前々からこのテーマで書こうとしていたのだけれど、なかなか進展していなくて、頓挫した形になっている。
実際、劣等感というものは、僕たちはそれを分かっているようで、改めて考えてみると、よく分からないという部分が多くある。
例えば、この言葉からして曖昧な部分を含んでいる。僕が使う劣等感という言葉と、あなたが思い浮かべている劣等感のイメージは幾分違いがあるかもしれない。本当は劣等感ではなくて、劣等意識のことなのだと僕は考えている。でも、それは感じられるものなのか、意識されるものなのかと問われると、人は両方体験するものだと言うしかない。
劣等感についていろいろ考えていると、いくつものサブテーマがそれに関与してくる。文化的なものも入ってくるし、歴史や社会も関係する。その他の人間の行動、例えばイジメであるとかスケープゴートであるとか、そうした諸々の行為も関係してくる。サディズムやマゾヒズムといったこともここには関わってくる。競争原理、あるいは男性原理も関係してくるし、上とか下とか、優位劣位といった順列も関係してくる。受容と拒絶、乃至は自己欺瞞のことまで発展してくる。
こうしていくつものテーマが漫然と浮かんでくる。浮かんではそれをノートに取る。出来上がったノートを眺める。あまりに範囲が広すぎて、一体、どこからどう書いたらいいかで迷う。でも、行き着く結論ははっきりしている。劣等部位を仮に本当に有しているとしても、そんな私が生きることを許されているということだ。
劣等感と言うと、僕たちの世界ではすぐにアドラーという人の名前が出てくる。アドラー心理学は分かり易いものだ。でも、アドラー心理学は個人の心理力動を度外視しているように感じられて、そこが物足りないように感じる。どこか表面的だというイメージを持ってしまう。
宮城音弥先生の『劣等感』を読み直してみる。よく研究されて、うまくまとまっていて、面白い本だ。でも、書かれた年代が古く、いささか過去の理論という感じがしないでもない。僕なりの『劣等感』が書けないものか、今も頭を悩ましている。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)