6月20日:今のうちに 

6月20日今のうちに 

 

 昨夜はYさんと食事に行く。いろんな雑用をこなさないといけないし、やらなければならない仕事も抱えていたので、僕は断ろうかと思った。 

 しかし、人生の数時間をYさんのために割くことさえできないだろうかと僕は自問する。これは一昨日も僕を悩ました疑問である。つまり、徹夜明けで警察に呼ばれていたあの日だ。 

 わずか3時間でも割いて、Yさんと会うこともできるはずだ。その代り、この先のどこかでこの3時間のツケを払わないといけないけれど、それだけのことだ。そういうことで頭を悩ませている自分がちっぽけにも感じられる。 

 でも、今の3時間の作業とこの先の3時間の作業とはまったく意味合いが違うかもしれないという気持ちもある。今日もまた、2件の雑用が増えた。その2件は、確かに今日ではないけれど、今週中に果たされるものだ。そういうことがあるので、今、できることとかやらなければならないことは、やはり今のうちにしないといけないという思いが強くなる。 

 僕の理想的な生は、50歳で人生をまっとうするということだ。これは以前も書いたかと思う。50歳で、やるべきことをやり、体験することを体験し、人生上の貸し借りをすべて終わらせるということだ。あと8~9年ほどしかない。僕に残された時間はそれだけだと自分に言い聞かせている。だから、生き急いでしまうのかもしれない。時間に拘ってしまうのかもしれない。 

 人生は短い。社会が高齢化したと言っても、人間の寿命がせいぜい100年ほどになっただけのことだ。たったの100年である。100年程度で何が達成されるだろうか。それに、人間の寿命が延びても、人間の機能がそのままだから、この長命化もありがたいものではない。だから、20歳から40歳までの20年間と、80歳から100歳の20年間とは、同じ20年になるはずがない。 

 そう思うと、今の時間ということがいかに大切かという思いに僕は駆られる。人は何かを達成したと信じる。頂点に達したと言う人もある。でも、頂点というものはない。それは人が任意に設定するものだ。つまり、本当は頂点なるものは存在しないのに、そこが自分の頂点だと信じてしまっているに過ぎないのではないかと思う。 

 余談だけれど、同じことは「どん底」という言葉にも該当する。人が堕ちることを止めた時点を「どん底」であると自ら称しているに過ぎない。本当の底は誰も知らない。 

 僕の生にはピークもどん底もない。ただ、何かの途上にある僕が在るだけだ。そして、最後の瞬間まで、僕は途上にある人間であるだろう。人間は決して完成されない存在だと僕は思う。 

 

 どうも堅苦しい話になってしまったようだ。もっと気楽に読める愉しいブログをと思うのだけれど、どうもそれができない。よく考えてみれば。気楽などという言葉がすごく嫌いな自分を発見する。真剣に人生をまっとうしないといけないと僕は思っている。 

 本当なら、昨夜はYさんと付き合って、あんなことがあってこんな話をして愉しかったというブログにしたいところなのだけれど、人のことにはなるべく触れないということにしているので、そこは書けない。ただ、僕も愉しい時間を過ごすことはできたと言えるだけだ。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

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