6月16日:心と体
今朝は少し遅刻した。遅刻と言っても、いつも朝9時ころ出勤しているのが、9時20分くらいになったということで、その後の予定に支障はなかったのだが。
この遅刻の理由は、駅で電車を待っている時、もう間もなく電車が到着するという時点で、僕が急に腹痛に襲われたからだ。高槻まで我慢するかどうかで迷ったが、電車を一本遅らせてもいいからトイレに行っておこうと決めた。それで遅刻したのだ。
僕たちは心と身体という二元論に慣れている。心身一元論を説く学派でさえ、完全にはこの二元論を克服できてはいないのだ。実際、僕たちは自分が心と身体を有しているという観念を普通に持っているのではないかと思う。ただ、この二元論のどちらにより重点を置いているかということに個人差があるだけである。
僕はカウンセリングをしており、心理学や哲学なんかに耽っている。こういう人間はえてして心の方ばかりに重点を置いてしまって、身体を置き去りにしてしまう傾向があるものだ。僕は、実際、身体の無理よりも、精神的な無理ばかりに注目してしまう。その時々の身体よりも感情の方に目が向く。内面の動きの方ばかりが気になって、身体がどのように動いているかということには無頓着だ。要は、身体の忘却が生じてしまうのだ。
今朝、腹痛を経験した僕は、改めて僕に身体があることを認識させてくれた。そんな感じがある。
昨日もいろんなことを考えたり感じたりをし続けていた。本業の方でもそうだ。あのクライアントとどう関わったらいいだろうかとか、あのクライアントと会っているとこんな気分になるけれど、これはどこから来ているのだろうとか、そんなことばかり考えているし、このサイトに関しても、どんな風にこのテーマを展開して記述しようかとか、どうすればもっと分かりやすくなるだろうかとか、いろいろ考えている。電子書籍の件でも頭を悩ましている。
副業の方でも、昨日は普段なら入らない時間帯で働いていた。他のバイトの人たちとも交流があった。高校生のバイトの子を見て、ああ、この子たちのためにもこの店を存続させてあげたいなとか、もっといい見本になれないといけないなとかいろんな思いがよぎって行った。あまり会話をしないバイトの人が話しかけてくれたりして、ああ、彼はこんなふうにして人と接することができる人なんだと安心したり、いろんな感情体験をした。
僕が身体を疎かにしているために、身体が痛みとして警告を発してくれたのかもしれないな。心を疎かにしている人は心が警告を発してくれているのだ。それが「心の病」であるという見方もできる。
そのような見方をしていると、痛みもまた歓迎すべきことのように思えてくる。もちろん痛いのは不快だし、嫌だけれど、痛みによって再認識できる事柄というのもたくさんあるものだと思う。
高槻に到着して、もう一度トイレに駆け込んだ。それから午前中の予定をこなして、今、昼休みである。身体の方はすこぶる快調だ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)