6月14日:AKBの総選挙? 

6月14日(木)AKBの総選挙? 

 

 僕はまったく興味がないので、見向きもしていなかったのだけれど、AKBが総選挙をするということで話題を振りまいていたことくらいは知っている。僕は、あれはメンバーが多くなり過ぎたので、ここらへんでメンバーを減らそうという選挙だとばかり思っていた。ところが、これはまったく違っていたらしい。僕は最近知った。あの選挙は次の新曲で誰が真ん中で歌うかを決める選挙だったらしい。そして、選挙に敗れても脱退させられるというわけではないらしい。「なんじゃそれは」という感じである。 

 昨日、Yさんとそういうことを話していた。僕はそれで熱狂するのが理解できないという意見を出した。彼女の説明では、選挙に敗れると、ステージの隅っこの方で歌うことになり、テレビカメラに収まるかどうかも覚束ないということらしい。だからこの子をもっと見たいと思うファンは真ん中に来て欲しいと願うのだろう。 

 しかし、誰が真ん中に来ても一緒じゃないか、どうせ誰が誰やら見分けがつかんのだからと、僕は考えるのであるが、こう考えるのは僕のオヤジ現象なのだろう。 

 僕は1960年代後半から70年代前半という時代に魅力を覚えている。ヒッピーの時代だ。あの時代は若い人たちが熱かったという印象を受ける。もちろん、僕が理想化している部分もあるかもしれない。彼らは自分たちが生き辛いのは親世代の価値観にあるとして、反旗を翻した。ある人たちは自分の価値観を見出すために、西洋ではなく東洋の思想にそれを求めた。禅やヨガが広く受け入れられたりもしたし、ビートルズがインドに修業に行ったりもしている。ある人たちは音楽や文芸で社会に訴えかけ、啓蒙していこうとした。一方で保守的だった人たちもいるが、それも一つの有り方だったと僕は思っている。静かな改革を求めていた人たちもいたわけだ。他方で学生運動を繰り広げる人たちもいた。闘争的な改革をしていった人たちだ。それも有りである。社会を変革しようと志す人も、自己を変革しようと志す人も、ともに活躍していた時代だったのではないかって、僕は思う。 

 だから、僕はもう20年早く生まれていたらと思う。その時代の文芸に触れるたびにそう思う。僕もその時代の空気に染まりたかったと思う。叶わぬ願いであるが。 

 クライアントが話してくれた。会社の中で、仕事の合間に同僚たちがAKBの選挙結果を報告し合っていると。彼もまたそういう同僚たちを冷ややかな目で眺めていたようである。僕は彼に同感だ。熱狂する対象があるということはいいことかもしれないが、少しばかり志が低すぎやしないかね。その選挙で生死が分かれるわけでもあるまい。隅っこの方で歌っているとしても、その子のファンならちゃんと見るだろうに。それでまた次の選挙をやって、今度は誰が真ん中に来るかで盛り上がる。他に大切なことはないものかね。 

 こういう現代の空気には染まりたくないと願うのは、僕だけだろうか。でも、染まりたくないとは言え、僕は僕の生きている時代から完全には解放されないし、逃れることもできない。嫌だ嫌だと思いながらも、僕は現代を生きることを受け入れようとはしている。60年代、70年代のヒッピーたちと共通しているのは、自分の生きている時代からは逃れられないと認識していることくらいかもしれない。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

 

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