6月13日(木):不可視の音楽
今日は比較的時間がある。これを機にサイト作業をやろう。
2月ごろに書いていたコラムを7本ほど公開する。
コラムページを開いてビックリ。12年目コラムのインデックスが中途で終わっている。なんで中断したんだろう。
ついでに、パソコンに12年目コラムの原稿が残っているかどうかも確認した。確認して、これまたビックリだ。パソコンの方に原稿が残っていないではいか。
それで、インデックスを完成させると同時に、サイト作業画面から原稿をワードにコピーする。
これだけのことをやるのに4時間ほどかかる。ぶっつづけでやって、いい加減、目が疲れている。
サイトの方も手を加えていかないといけないなと思う。なかなかそこまで手が回らないのであるが、少しずつでも着手していこう。とにかく、何がどこまで進んでいるのか確認していくことから始めよう。
ああ、こんなことをしていたら、きっとネットの容量が足りなくなる。月末辺りは開けなくなるんじゃないだろうか。これから動画完成記念コラムも公開していく予定なのに、そうなると具合が悪い。
作業をしながら、音楽もよく聞いた。音楽が「いいなあ」と思えた。これは僕にとってはいいことだ。
音楽と美術との大きな違いは、音楽は目に見えないということである。絵画や彫刻、建築などは目で見える。映画などの映像芸術もまた可視的である。文学もまた視覚に訴えるものであり、視覚的要素の強い芸術である。その点、音楽は不可視である。
不可視なものを「いいなあ」と思える。僕にとってはこれが特に重要である。人の言葉もまた不可視である。カウンセリングという営み自体、不可視な部分がとても多い。もし、僕が不可視な対象に対して、「いいなあ」とか感情的に経験できないとすれば、僕は人の言葉からも、面接からも、それらを経験できなくなるだろうと思う。そうなってしまうのが僕には恐ろしい。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)