6月11日(火):他人は人格、自分は環境
今日は定休日だ。
予定としては、レンタルDVDの返却に行って、その後、職場に出るつもりであった。しかし、足の痛みが激しく、かろうじて返却だけできたけど、後は家で安静にして過ごした。
このDVD返却なんだけど、往復で5キロほどの道のりだ。足が痛くなければなんてことのない距離だ。普通に歩ける距離である。キツければバスを利用してもいいんだけど、時間帯によってはバスの方が却って時間がかかる場合もある。バスを15分とか20分とか待つようであれば、歩いたほうが早い。
今日は、足が痛いにもかかわらず、往復をすべて歩いた。びっこをひきながら、且つ、足を引きずりながら歩いたので、妙に疲れてしまった。また、腰の辺りに負担がかかったのだろう。腰痛の前兆が現れている。
とりあえず、借りたものを遅延することなく返却した。こういうのを一つ一つ守っていかなければ。
その帰宅途中、さすがに疲れたので、喫茶店で一服した。
60代、70代の男性の一群がテーブルを寄せ合って談笑していた。皆さん、定年退職した人たちのようだ。ああいう世代の人たちのお喋りは、耳学問していると、得るところも多い。仲間内でしかしない話題なんかもあったりする。そういうのはなかなか聞けないことである。
なにやら銀行の話をしている。いや、最初は山の話だった。それで僕が反応して耳を傾けるようになったのだ。山登りの話から、紆余曲折を経て、銀行の話になったのだ。銀行の話は、僕が疎いだけに、参考になった。そうか、あそこの銀行があまり良くないのかとか、意外にもあの銀行が強いんだとか、そんなことも聞けたのは儲けものだった。
難点もあった。おじさんたち、声がでかいのだ。静かに本が読めなかった。
帰宅後は、まず、横になる。足がキツかった。
その後、横になったまま映画を一本観る。画面が見にくい。今日は映画は止めだ。横になったまま観れるようなものを借りてくればよかった。映画ではなく、ヴァラエティなんかにしておけばよかった。
そういえば、以前、Yさんに録画してもらったDVDがあったはずだ。ダウンタウンの番組なんかだ。探すと見つかる。適当に鑑賞する。5年とか前のものだ。なんだか懐かしいな。
5年前には、5年後の自分がこんな姿になっているなんて思いもよらなかった。5年前は、膝も割れていなかったし、休日ももっと有意義に過ごしていたように思うし、それに付き合う人もいた。それが今ではどうだい。そう思うと、自分にますます嫌気がさしてくる。
夕方頃、少しウトウトする。食事は気が進まない。それでも食べないわけにもいかないので、少しだけ食べる。
夜は、やはり横になって過ごした。午後からはほとんど横になって過ごしている感じだ。下手に動くと、足を庇うので、変なところに負担をかけてしまい、そこがまた痛くなったりするのもイヤだ。そうして一日安静にして過ごした次第である。
本を読む気力も湧かず、ぼんやりと考え事をしていた。最近面接したクライアントたちのことをを考えていた。当然、寝転がってだ。
考えていたことは、「他人は人格、自分が環境」、この認識次元からどうやって抜け出すかということだった。
何のことかと言うと、他人の行動は人格に還元し、自分の行動は環境に還元するということだ。ニスベットなんかの実験研究では、人間はそういう認識をする傾向があるとのことである。
例えば、他人が怒った時、「あいつは怒りっぽい奴だ」とか「人格障害だ」などと言うわけである。人格要因にその行動を帰属させているわけである。しかし、自分が怒った時には「あいつがあんなことを言ったからだ」などと、状況とか環境にその行為を帰属させるというわけである。
大概のクライアントは、自分自身の経験を話す時に、その認識を持ち込む。他人の行動はすべてその人の人格特性に原因があるとされ、自分の行動は環境や状況に原因があるとされるのである。つまり、自分のそれは主体的な行動でもなく、人格特性でもなく、自分は環境や状況の「被害者」なのだと言っているようなものである。
しかし、どうしてそういう認識になるのか、そして、そこからどう認識の次元を上げていくのかに関しては、何も分からない。どうすればいいのやらと、頭を抱えるばかりである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)