5月7日(月):連休と「五月病」
一段落着いた。今日はYさんは来そうにないなと思いながら、あと20分だけ喫茶店に残ってみようと思う。その20分の間にもう一本ブログを書いておこうと思う。
さて、何を書こうか。ブログを一本書いて、サイト用の原稿を二つ仕上げて、その上でさらにもう一本書こうというわけだ。
そう言えば、今朝、テレビで連休明けの鬱のことを取り上げているのを見かけた。この鬱は昔で言う「五月病」のことである。しかし、これは罹る人と罹らない人とがある。その違いはどこにあるのだろうかと、僕は今朝、出勤時に考えていたのを思い出した。
僕の考えは単純で、それはその人のアイデンティティ感覚によるのだろうということだ。自己のアイデンティティ、あるいは自己そのものが希薄であったり曖昧であったりする人ほど、連休明けには自己を喪失してしまうものではないかと思う。連休前の自分とその後の自分との間に、容易につながりを喪失するからである。
これを身体の問題だと考える人たちもいるのだけれど、僕はそうとは思えないのだ。と言うのは、僕自身「五月病」を経験した時期があるからだ。自分の経験から見て、それが身体の問題ではないと思われているし、身体的に何かをして解消できたという覚えがないのだ。そして、僕が「五月病」を体験したのは、僕が大学生の頃、最初の大学に在学していた頃だ。それ以後、僕はそういうのを体験したことがない。僕の人生において、もっとも自己が危機的状況にあった時期に、そういうものを経験したのだ。だから、「五月病」、あるいは「連休明けうつ病」と言おうと、それはもっと自己やアイデンティティに関連する現象であると捉えているのだ。
しっかりと自己やアイデンティティが形成されている人なら、連休前と後とで、それほど違った自分を体験しないのではないかと僕は思う。いや、これは僕の体験を鑑みて、そうだと信じている。連休明けには、多少本調子が出ないということはあり得るかもしれないけれど、すぐに以前の状態を取り戻すものである。たかだか一週間程度のブランクで、そこまで自分を失わないものである。
でも、まあ、もっともいいのは、連休なんか廃止してくれることだ。連休なんてない方がいいと僕は思っている。みんな遊びに行くだけじゃないか。そして交通渋滞に満員電車、長蛇の列を生み出して、ヘトヘトになって遊びから帰ってくる。本当にそれで満足できているのかどうか、一人一人に訊いてみたい気もする。
僕の場合、連休はアルバイトをするというのが、この20年来の習慣である。本業のカウンセリングをやってみたこともあるが、連休中は普段来ているクライアントも来れないと言い出すので、開店休業状態になった。それで、連休は本業の方は休もうと決めたのだ。来たいというクライアントのために、連休中のどこかで、一日か二日、開けることにしているが、表向きには休業ということにしている。今の僕にとって、遊びに行くよりも、そちらの方が有意義に思えている。アルバイトが四日、面接のために開室したのが二日、それに職場内の整頓や掃除などの作業のために二日、今年もいい連休を僕は送ったよ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)