5月26日:危険人物

5月26日(火):危険人物

 

 動物の中には同種族内での争いに長けている種があり、そういう種は絶滅してしまったり、外的(これは他の種の動物だけではなく、災害とかウイルスなんかも含まれる)に弱くなるという(注1)。当然と言えば当然だ。お互いに滅ぼし合い、協力すべき場面で反目し合うのであれば絶滅の可能性が高まるだろう。

 どんな動物でも同種族内で争うことはある。それでも相手が戦意を喪失しているとみなされるとそれ以上の攻撃を加えないのである。動物はそこで抑制が働くそうである。遺伝的に決定されているということであるらしい。

 人間にはそういう遺伝規定がない。相手を殺すまで攻撃することが可能である。尚且つ、人間は道具を使用することができる。道具の使用によって、変な言い方だけれど、より効率的に人を殺傷することができるのだ。

 その道具も種々様々である。ナイフで刺すことも、バットで殴ることも、ロープで首を絞めることも、自動車で轢死させることも、火炎瓶で焼死させることも、毒を盛ることも、あるいは罠を仕掛けることもできる。どんな道具でも人を殺傷できるのだ。

 フィクションの世界ではその方法や道具はさらに豊富である。ミステリ作家はよくあれだけあの手この手の殺傷方法を考えつくものだと、ある意味では、感心してしまう。冷凍肉が凶器になったり、オーブントースターでさえ殺人に用いることができてしまうのだ(注2)

 思想や言葉が凶器になることもある。インターネットで殺人さえできてしまうのだ。若い女子レスラーがネットの誹謗中傷を苦に自殺したというニュースを読んだ。

 

 その女子レスラーさんを気の毒に思う。しかし、その前に「危険人物」ということについて述べておこう。とは言え、分かりやすく述べるために「危険生物(動物)」から始めよう。

 動物の中には猛獣に分類されるものもある。危険生物とみなされるものもある。これらは人間に大きな危害を加えることができる動物・生物たちである。

 ライオンやクマ、イノシシ、その他ワニとかサメとか何でもいいのだけれど、そうした動物たちは人間を襲った場合、人間を殺傷できる。だから危険な動物とみなされやすい。

 ところが、そうした動物は常に人間を襲うわけではない。サメが人間を襲うというような場合でも、サメはそれを人間とは知らずに噛みつくのだそうだ。ライオンなんかでも人間を見かけたら即座に襲いかかるわけではないのだ。

 この話の要点は、人間を襲うから危険なのではなく、人間を殺傷する能力があるから危険だということなのである(注3)。実際に人間を襲うかどうかは関係がないのである。そういう能力を有しているというだけで危険な動物とみなされているわけである。

 人間の場合も同じなのである。僕はそう考える。危険人物とは、実際に人に危害を加えるかどうかには関係がないのである。そういう能力ないしは傾向を持っているかどうかで決まるのである。

 従って、ネットで誰かを誹謗中傷する。その人は自分では善人と思っているかもしれないが、本当はそうではないのである。きわめて危険な人物なのである。

 人間はさまざまな道具を発明してきた。それを殺傷のために用いることもできる。僕たちの身の回りにはそういう道具で満ちている。道具を持っているという点では、僕たちは誰もが誰かに対して危険人物たりえるのである。これは、サメが獰猛な牙を持ってるから危険であるというのと同じ水準の話である。

 しかし、人間には意志とか理性とか人格といったものがある。本能とか衝動は別の次元で、自分の行為を方向づけることができる。危険人物とみなされたくなければ、人格的に生きなければならないのだ。

 

(注1)S・I・ハヤカワ『思考と行動における言語』に記されているエピソードである。

(注2)前者はロアルド・ダール『あなたに似た人』より、後者はMWA傑作選『あの手この手の犯罪』より。

(注3)出典は忘れたけれど、サルトルがそういうことを述べていたように思う。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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