5月22日(金):コロナ・ジェノサイド(44)~自粛警察に見る被害妄想
いわゆる自粛警察なる人たちがいる。こういう人にお目にかかりたいと思う気持ちもある一方、こういう人と出会ったらさぞかし面倒臭いだろうなあとも思う。遭遇しない方がましか。
おそらく、自粛警察といってもそこにはさまざまな人がいるだろう。僕はテレビで見た。これが自粛警察官というものかと納得したものである。僕が見た映像を記述しよう。
場所は神奈川県だったと思う。夜の公園での出来事だった。自粛警察官(以後「警官」)は公園に犬を散歩させにきた男性であった。ちなみに、この時、犬のクサリは外されていた。職務質問された方(罪ある者とみなされているので「罪人」と呼ぼう)はマスク未着用でそこを通りかかった男性である。
罪人の言うところによれば、マスクの紐が切れてしまったそうである。それで人の多い通りを避けて帰宅しようと思いその公園を通ったとのことである。
警官は罪人がマスク未着用なのを咎める。マスクを付けずに近寄るなと大声で怒鳴る。
何度もそういうことを怒鳴られて、罪人は何か手を動かしたのだろう。そこは映像では確認できないのであるが、警官はそれを見て、シッ、シッとはなんだと怒鳴り、さらには俺が間違ったこと言っているかといったことを大声で言う。
さて、今の話を順を追って述べよう。
まず、場所であるが、自粛生活が長引いている地域ほど自粛警察官のような人が多いだろうと思う。従って、大都市圏ほどそういう人が多そうである。もっとも、人口が多ければ監視する人も監視される人も数が多くなるだろうから、地域は度外視してもいいのかもしれない。
罪人の落ち度は予備のマスクを用意していなかったところにある。僕はカバンにはいつも予備のマスクを入れて持ち歩いている。この罪人男性のように紐が切れることもあるだろうし、雨に濡れたり汚れたりすることだってあるだろう。だから予備のマスクをカバンに入れておくくらいの用心はしておいた方が良かったと思う。
しかし、罪人は自分がマスク未着用状態になっていることを自覚している。彼は人通りを避けようとする。罪人男性の言葉をそのまま信用すれば、これは他者配慮であり、現実吟味が損なわれていないことを伺わせる。
警官はマスク未着用の彼を見咎める。マスクせずに近寄るなと怒鳴る。まともな人ならいきなりそういうことは言わない。「あなた、マスクはどうしたのですか」とか「マスクはお持ちじゃないんですか」などと尋ねるだろう。これに関しては後にもう一度取り上げることにしよう。
この警官の理論を見よう、マスク付けずに近寄るなという怒声に含まれている思想はどういうものであるだろうか。そもそも、マスクを着用するのは飛沫感染の防止のためである。感染防止が目的であって、マスク着用はそのための手段の一つでしかない。他の手段としては距離を開けるとか、こまめに手洗いうがいをするなどがある。いずれにしても、感染防止が本来の目的であって、マスクを着用することはそのための手段である。この関係を頭に置いていなければならない。
もし、警官がマスク未着用の罪人を見咎めて「ウイルスが感染する」などと怒鳴れば、少なくとも、目的と手段の関係を見失ってはいないということになるだろう。ところがこの警官はマスクを付けずに近寄るなと怒鳴っている。あくまでもマスクの有無が思考の中心にあるように思われる。
要するに、マスク着用は目的のための手段であるに過ぎないのだけれど、警官にはすでにその手段が目的化しているのだ。本来の目的の部分、これを本質的な部分とすれば、マスク着用というのはその本質に付随するものである。ところが、本質は失われ、それに付随しているものが本質の位置を占めているようだ。これは何を意味するかである。
僕は意識野の狭窄を見る思いがする。限られた小部分にしか意識の光が当たらなくなっている状態であるように思う。本質のような中心的概念を視野に入れるほど意識が広くなく、周辺の小領域の事柄しか意識の光が当たらず、尚且つ、その小領域が意識の全体を占めてしまうことになる。
この警官の言葉のもう一つの要素に目を向けよう。俺に近づくなという命令の部分である。明らかにこれは怯えの感情である。この罪人は警官にとって恐ろしい人間に映っているのである。警官は危険人物として罪人のことを見ているのである。
しかしながら、通常はそんなに恐れることはない。相手がマスク未着用でも十分な距離を開けていれば安全である。映像で見る限り、この罪人と警官の距離はけっこうあるようであった。飛沫もとうてい届かないほど距離に開きがあったことは確かである。決して至近距離ではなかった。
十分な距離が取れているのに、どうして警官はマスク未着用者に脅かされなければならなかったのだろう。ここに疑問が生まれる。警官は何に怯えていたのだろうか。
僕はそれは「不意打ち」にあると考えている。警官からすれば罪人の登場は不意打ちに等しかったのだと思う。従って、二人の距離が100メートル離れていても警官は怒鳴っていただろうと思う。
この警官も人がいないと思って公園に、しかも夜の遅い時間に来ていたのかもしれない。そこに彼が一番恐れている人物が不意に現れたのである。罪人の登場が警官の心を搔き乱すのであるが、それが不意打ちの形を取ったために、警官はそれを自分に対する一つの加害として体験したかもしれない。あの敵意というか攻撃性は加害に対する自衛のものであり、決してウイルスに対する自衛ではないのである。そして、言葉を変えて言えば、この警官は罪人の登場に対して被害的になっているのである。警官の方が被害感を経験しているのだと僕は思う。
次に男性の方が何かのしぐさをしたようである。警官はそれをシッシッと人を追いやるしぐさとして認識している。現実にはどのようなことが起きていたのかは分からない。罪人の方はそういうジェスチャーをしたかもしれないし、別のジェスチャーを警官が読み違えているのかもしれない。
しかし、罪人の方から距離を取ってくれと言ってくれているのであれば、警官の方は何も恐れることはないはずである。ところが、警官はこのジェスチャーを迫害として受け取る。自分では近づくなと言っているのに、相手からあっちへ行けと示されることには立腹するのである。矛盾があるわけだ。こうした矛盾が生じているのは、警官がそれとまったく違う文脈にいるからである。僕たちが見てきた文脈、人の少ない公園でマスク未着用の人が歩いてきたという文脈とはまったく違う文脈に警官の方がいるのだ。
警官は、加害者と被害者の文脈でしか見れなくなっているのだと思う。排斥するようなジェスチャー(あるいは「お先にどうぞ」というようなジェスチャーであったとしても)もまた自分に加えられた加害なのである。その加害に対して怒りを発していることになる。
その後に、「俺が間違ってること言ってるか」などと警官は怒鳴る。一見すると、自分の認識に疑いを持っているかのように見えるが、恐らくそうではないだろう。警官はそれを問いかけることで罪人からの如何なる反論(反撃)をも受け付けないように試みているのだと思う。被害感情から生まれた言葉だと思う。
僕はこの警官に自分の認識が正しいか間違っているかを吟味する力がない、つまり現実吟味とか自己検討とかの自我機能が損なわれていると見なしている。現実の光景は被害感情によって色づけられているように思う。
さて、ここで先送りしてきた問題に戻ろう。マスク未着用の人を見かけ、その人に何か言うとすれば、健常な人なら「マスクはどうされましたか」などと尋ねるだろうし、その理由を聞いて相手がマスク未着用になっている事情に共感できるだろうと思う。紐が切れたんですか、そりゃ災難でしたね、などと言葉をかけられそうなものである。
健常者にはなぜそれができるかということであるが、相手と共人間的な地平に立てるからである。いちいち説明するまでもないことだが、この警官にはそれが失われているのである。僕にはそのように見えるのだ。警官はすでに他者と共人間的な地平に立てなくなっていると僕はみなしている。警官にとって他者は同じ人間ではないのである。脅威をもたらす存在なのである。その意味ではウイルスと人間が同一化しているのである。
そのことは彼が犬を放し飼い状態にしていることからも伺われるように思う。イヌの鎖を解放しているのは、いつでも敵に襲い掛かれるようにという用心のためかもしれない。この警官がどれほど怯えている人間であるかを伺わせる。でも、そこは憶測でしかないので、踏み込まないでおこう。
結論として、この自粛警察官は被害妄想者なのである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)