5月18日:活動の制限 

5月18日(月):活動の制限 

 

 連休に職場の模様替えをして、この日月火の三日間でやり残したところをする。だから昨日も今日も極力面接を入れないようにした。本当なら、先週の時点でこの作業をしているはずだったのだけど、先週は少し忙しかったのと、まとまった時間が割けないために延期したのだ。 

 職場だけではない。僕は自分の生活を変えようと計画している。今はその過渡期で、6月からその生活に入るだろう。もっとも、6月に入っても引き続き継続する作業は残るのだけど。 

 連休前までの生活は、まるで満足のいかないものだった。それを少しでも改善するために今は動いている。 

 まず、生活とか作業を制限しようと思う。パソコンは家に置いて、帰宅後に一日2,3時間を執筆したりサイト作業をする。日中は、職場にいて、面接をし、記録を書き、勉強をして、本を読む。そして、一日に最低でも30分はピアノの練習をする。本も、僕の好きだったミステリーも読むことにする。 

 つまり、面接して、書いて、読んで、音楽をする。それだけの活動に絞るのだ。それ以上のことをしようと思うと無理が生じる。 

 

 僕は僕の活動を制限しようとしているのだけれど、これを他の人に対して行った場合、DVとかモラハラになると思うだろうか。ある人たち、軽率な専門家たちは、それはモラハラに該当するなどと言い切るのだけれど、僕は賛成しない。 

 それと言うのも、DVやモラハラに関して書かれていることや言われていることは、人間のタイプを無視しているように思われるからだ。 

 例えば、僕の前に一人の友人なり恋人がいるとする。その人がある活動を開始したいと言った時、僕がそれを止めさせたとする。そこだけ見ると、確かに僕は相手の自由を束縛したことになるかもしれない。 

 しかし、その人がどんな人だろうか、そこを見なくてはいけない。例えば「農耕型」の人と「狩猟型」の人と言われることもあるのだけれど、自分の生きている状況や枠組みに永住しようと望む人と、それらに不満で常に状況を変え、枠組みを広げようとする生き方をする人がいるのだ。 

 もし、その人が「農耕型」の生き方をする人だったら、その人が自分の世界を広げようとするのを僕が制したわけだから、これはモラハラとかパワハラに該当するかもしれない。でも、その人が「狩猟型」の生き方をする人だったら、この種の人は世界を広げ過ぎて破綻してしまうことが多いから、僕がそれを制するのは援助的な行為になるかもしれない。 

 同じ行為であっても、相手のタイプによっては、援助にもパワハラにもなり得るのだ。そこを度外視して、こんな行為をされたからそれはモラハラだとかパワハラだと騒いでいる人も僕はよく見かける。 

 僕も、こう見えて「狩猟型」の生き方をする傾向がある。自分に適した狩場を広げようとするところがある。これは「躁的」な傾向でもあって、このおかげで自分の世界が広がっていくのだけれど、広がりすぎた暁には自分では手に負えなくなっていて、自分でもどこまで狩場なのか収拾がつかなくなるという事態に陥ることが多い。これを改めるために、僕は活動を制限しようと思うのだ。当然、酒を呑み歩いたりはせず、毎日の生活パターンを確立して、維持する。 

 そんなことを考えたりしながら、今日一日が終わろうとしている。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

(追記) 

 こうした制限はある程度まで現在も引き継がれている。いろんなことに着手しすぎてしまわないように自分を幾分セーブする。その分、僕の世界は縮小してしまうかもしれないけど、仕方がない。 

(平成29年6月) 

 

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