5月17日(土):闘病記―9
今日も一日、酒に手を出さず、控えめな食事で満足し、健康的な一日を過ごせたと思う。まあ、健康的でなかった側面もいくつかあるが、それは大目に見よう。仕事が終わって、喫茶店で少し勉強と来週の予定を立てたりして過ごす。そのため、歩くのは後回しにした。つまり、歩いてから電車に乗って帰宅するのではなく、先に電車に乗って、手前で降りて、そこから歩いて帰宅するという手順の変更をしたのだ。
この「闘病記」というタイトルも不似合に感じられてきた。「病気」と診断されたわけではないのに、こういうタイトルをつけているのはおかしいと思うようになった。でも結局、人は自分が「病気」であるのかないのか、自分では決められないのだ。誰も決められないのだ。医師の診断がそれを決定するという面があると思う。逆に言うと、誰も決められないということは、自分で決めても差し支えないことではないかとも思う。自分が「病気」だと自認しているとすれば、それはやはり僕にとって「病気」として体験される事柄ではないだろうか。
そんなこんなで、このタイトルは残しておくことにする。もっと広い視点に立てば、人の一生は闘病の連続だとみなすことも可能だ。治療も予防も治癒後も、すべて闘病ではないかとも思う。案外、このタイトルでよかったかもしれないとも感じられてくる。
前にも述べたけれど、透析生活をしている人を何人か見てきた経験がある。僕は持病や体の具合が悪くなると、途端に彼らの姿が脳裏をよぎる。彼らの姿が他人事のようには思えなくなり、僕自身がそのようになっている姿がイメージされてしまう。分かってもらえないとは思うが、それはとても恐ろしい体験である。恐れている姿に自分が近づいていっているような、あるいは、恐れている姿が現実に迫ってきているような、そういう気持ちに襲われるのだ。
月曜日からの一週間の予定を組んだ。ほぼ毎週、こういう予定を組むが、完全に守られたことはない。と言うのは、予定外の事柄が飛び込んでくるからだ。常に予定変更を迫られる。でも、こうした予定は僕の指針として役立ってくれればいい。この一週間をどのように生きるか、今週は何に力を注ぐか、そうしたことの指針として立てている。守れなくても、それ自体はそんなに問題ではない。
こうした予定を立てる時、もう一つメリットがある。改めて、今、自分が何をしたいと思っているのか、何が必要だと感じられているかといったことを、自分に問い直す機会になるという点だ。
自問した結果、僕は今、身辺整理をしたいと感じているということに行き着いた。身の回りをすっきりさせたくなっている。そう思うなら、それをそのまま実行しよう。そして、日常の仕事や業務の合間を縫って、それらを少しずつ実施する計画を立てた。一週間でどこまでのことができるかは不明だけど、できるだけやろうと思う。
本は、昨日に引き続き、角田喜久雄の短編一つ、梶井基次郎の短編一つ、レーヴィット一節、その他ディルタイに関する諸々の文章、ガンダーソンらのケーススタディ、シンガー「心理療法の鍵概念」の拾い読み等々。
角田喜久雄の「発狂」が、今日、読んだ中では一番良かった。これは父親の復讐を受け継いだ息子が主人公なのだけれど、彼は敵の娘の婚約者の地位に納まる。娘を苦しめることで、本当の敵であるその父親を苦しめるというのが彼の計画だった。復讐の鬼となった主人公は、完全なアリバイを工作し、犯罪を企てる。通常、この手の推理小説は、思わぬ落とし穴のために完全犯罪が失敗してしまうというのがパターンだ。でも、本作はそれが成功してしまう。しかし、成功したがために、新たな悲劇に主人公が見舞われてしまう。秘められた過去や因縁が彼を狂気に追いやることになる。
推理小説はネタをばらしてはいけないという暗黙のルールがあるので、詳述しないけれど、この作品におけるアリバイ工作はなかなか凝っていて、面白い。犯行のシーンも印象に残る。主人公のキャラも、悪人になりきれないというようなところが感じられて、好感がもてる。大正15年の『サンデー毎日』第1回大衆文芸賞に入選したそうだが、それも頷ける。今でも面白く読むことができる。
あと、ディルタイの精神哲学、人生哲学を勉強してみたいという気持ちが日に日に強くなっていく。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
病気というものは医師が決めるものだ。もちろん一方的に決めるわけではない。医師が診断することによって、それが「○○病」と決定されるのだ。それまでは、本人には「不具合」として経験されている何かであって、必ずしも病気であるとは決定されていないのだ。しかし、医師が病気ではないと診断しても、病気だと信じる人もあるくらいだから、病気であるかないかは本人の自覚に委ねられている部分もあるように思う。病識がないというのは、医師側からすれば問題ありだけど、当人は問題がないと認識しているわけであり、それを間違っていると指摘することもできないのである。当人の自覚に委ねるしかないのだ。
(平成29年1月)