5月16日(水):Yさんと僕
今日はなかなかキツイ一日だった。けっこう忙しく過ごした。でも、僕の中では独りになりたいという気持ちが渦巻いている。ユング流に言えば、集合的無意識が動き始めたからだということになる。僕自身がそれに触れているので、僕は独りになりたいと思うようになっている。
今日はYさんと会った。Yさんと会っていて、僕は何一つ愉しいとは思えなかった。これはYさんが悪いのではない。それだけは強調しておく。僕自身が、今は独りになりたいと願っているからだ。Yさんに限らず、こういう時、僕は人付き合いが非常にしんどく感じられる。
Yさんともこのまま終わってしまうかもしれない。それも仕方がないことだ。これまでも出会っては別れてということを繰り返して生きてきた。もし別れたら、僕は多少の未練を引きずるかもしれないけれど、それも半年から一年というところだ。経験的に見て、それくらいで未練も終わるものだ。
一度でもYさんと触れ合いたかったが、それも叶わぬことかもしれない。触れ合うと言うのは、身体的な意味ではない。もっと情緒的な部分でのことだ。
昨日、僕はYさんを怒らせるようなことをした。だから今日はきっと怒ってくるだろうと予期していた。だけど、Yさんは僕にぶつかってくることはなかった。いつもそうだった。僕にはYさんが怒っているのが分かる時がある。でも、大抵の場合、Yさんはそれを隠し、自分自身をそれから遠ざけようとする。
人の心は全体的に働くものだと僕は考えている。だから怒りを表に出せない人、表現できない人は、それ以外の感情に対しても同じようになってしまうものだと僕は思っている。怒りを表現できない人は、同じように愛情を表現したり、喜びを表現したりするのにも困難を覚えるものである。
自分の感情を圧し潰す人は、同じように記憶や連想、思考なども圧し潰して生きていることが多いものだ。僕は自分の体験からもそのことがよく分かるのだ。
まあ、そんなことはどうでもいい。Yさんはどう体験していたか分からないけれど、僕の方はYさんと会っていて、分厚い壁越しに接しているように体験することもあった。この壁はどちらがもたらしたものかはっきりとは言えない。恐らく両方がもたらしていたものだろう。僕にも多少はこの傾向があるのだけど、Yさんも警戒心が強い傾向があると僕は思っている。いつかこの警戒を解いてくれることを願っていたのだが、どうもそれも叶わぬ願いになりそうだ。
どうも今日は考えることが悲観的過ぎる感じがしている。気分的にいろんなことが億劫になっている。そういうことに対して、疲労感もある。
数年前まで、僕は独りだった。僕の場合、それでよかったのかもしれない。当時は当時でけっこう充実していたものだ。Yさんと別れるようなことになったとしても、僕は単に以前の生き方を取り戻すだけだ。今の望みは、独りになって、仕事に、自分自身や研究していることに打ち込みたい。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)