5月15日(土):ブログ再開~コロナ禍を生きる
先月の終わりごろだったか、パソコンの更新の通知がしきりに入ってきた。一度、インストールを試みたが物凄い時間がかかったので、それ以来、ずっと引き延ばしてきた。それでもあんまりしつこく更新の通知が来るものだから、渋々、インストールした。
更新はうまくいったようである。しかし、困ったことが起きた。ワードに不具合が生じたのだ。僕のパソコンにインストールしているワードがなくなっているのだ。アンインストールされたのだろうか。でも、完全にはなくなっていないのだ。一部はパソコン内に残っているのだ。そのため、再インストールしても入らないという、変な状況になった。
ワードを開くことはできる。保存もできる。ただ、修正その他の作業で困難が発生している。どうすべきかでずっと悩んできた。結局、現状のまま使用することにした。不便ではあるけれど、あれこれパソコンをいじくるのは止めておこうという気になった。
文書の修正をしようと思えばできるのだけれど、それはかなり煩雑な手続きを経なければならない。非常に面倒である。そこで、ブログもサイトも原稿がある程度完成したら、その時点で一旦公開しようというふうに考えている。このブログも今日から再開することにした。
僕の日常生活は相変わらずといったところだ。連休中はあまり仕事も入れずに、職場のモノ減らしに従事する。見た目はあんまり変わっていないようだけれど、書架一つ分くらいのモノは減らしている。まあ、それなりによくやった方だと自認している。
コロナ禍ということもあり、宣言下ということもあるので、行動範囲は相変わらず制限している。外出はするけれど、範囲を決めている。家と職場の往復と、両者の限られた周辺エリアだけを移動する。それより遠くは行かないようにしている。また、人混みは避け、電車もラッシュ時を避けて乗るようにしている。
オリンピック反対の署名運動をしている人があるそうだ。どうやって署名するのか僕は分からない。でも、もし署名を求められたら僕は署名するつもりだ。ただ、それが何の役に立つか、まったく期待していないけれど。
そもそも国民の声を聴く政府ではないのだ。国民どころか、野党の声も聴かないくらいだ。反対勢力が大きくなれば中止を決める政府であるとも思えない。そこで中止するのは正常な精神の持ち主である。異常な精神の持ち主というものは、何が何でもやり通すのである。100%の人が反対してでも、強引に、ごり押しでやってのけるのである。
一部の人は権力に憧れる。それはまだいいとして、権力だけしか持っていない人間を知りたいなら今の首相を見ればいい。権力者になるためには、権力以外の多くのものを持っていなければならないのだ。絶対に必要なのは健全な精神だ。そして、健全な展望を持てることである。
もし、不安な将来しか思い描けないとか、不安な将来しかこの先待ち構えていないというような人は、まず間違いなく無力になる。その不安を解消してくれると期待しているものが一つでもあれば、間違いなくその一つにしがみつく。今の首相はそういう人間であるように僕には見えてしまう。
オリンピックに関して言えば、医療従事者をそちらに割くことが問題になっている。医療従事者の数が足りなければ開催できないかというと、これは簡単に解決できる。
ある程度の従事者を募れば開催してしまえばいいのである。そして、選手村の食事にちょっぴりハラ痛の薬でも混ぜておくのだ。選手や関係者が集団で食あたりしたということになれば、医療従事者がそれにかかりきりになる。そうして医療従事者不足はごまかせるのである。つまり、医療従事者は足りてました、不測の集団食あたりのために手が足りなかっただけですと言い逃れることができるということだ。
チェスタトンの短編小説で、一人の兵士の殺害を隠蔽するためにその部隊を全滅させてごまかしたという将軍の話があったな。ブラウン神父ものだったと思う。それと同じことである。問題となっていることよりも、さらに大きな問題が後から発生すれば、最初の問題はいくらでもウヤムヤにできるのである。
いくらポンコツ政府でもそんなひどいことはしないだろうと思うかもしれない。僕もそう願う。でも、僕はあり得ない話ではないという気もしている。大正時代の関東大震災の時、政府の対応が遅れたことをごまかすために、政府は朝鮮人の暴動というデマを流したのだ。
不幸なのはたまたま日本にいた朝鮮の人たちだ。意味もなく警察や日本国民から迫害され始めたのだから。そして、こちらの町の人間からすると、朝鮮の人たちが集団で攻めてきたように見えるのだけれど、現実には向こうの町で迫害されてこちらに逃げているだけであったりする。デマの方を信じているのでそう見えてしまうのだろう。あっちの町から朝鮮人が攻めてきたと解釈すると、こちらの町の日本人は、保護するどころか、彼らを迎え撃つことになる。デマを信じた日本人もやはり不幸である。暴力に加担することになってしまったからだ。
社会心理学ではデマを研究する分野がある。オールポートなんかもそうだけれど、この日本の事例はその分野ではけっこう有名で、よく取り上げられる。日本にとっては不名誉なことであるが。
それはともかく、かつてはそういうこともした政府である。それと同じようなことをやらかさないとは絶対に言えないのである。
だんだん話が逸れてきたな。オリンピックは中止すべきである。でも政府はごり押しして開催するだろうし、どんな犠牲を払ってでも、どんな手段を講じてでも開催するかもしれないので恐ろしいのである。
久しぶりのブログなので、あれこれ書くこともあり、ついつい分量も多くなってしまった。今日はここまで。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)