5月15日:コロナ・ジェノサイド~a la carte

5月15日(金):コロナ・ジェノサイド(43)~a la carte

 

(宮城先生、あなたは正しかった)

 もうこのシリーズを書くのにも疲れてきた。そろそろ一区切りつけよう。思うところのものはたくさんあれど、こうして書いている自分にも嫌気がさしている。

 今回のコロナ禍は、2割がウイルスによる被害、4割が政府の政策による被害、4割が人間同士の間における被害、個人的な概算だけれど、僕はそんなふうに感じている。2割の方はじきに終息していくだろうけれど、次の4割の終息には時間がかかるだろうし、最後の4割はもはや終息は不可能であるかもしれない。

 宮城音弥先生が日本人は他罰的な国民だということを書いていた。何か問題が起き、責任が生じると他罰的になるというのだ。若いころ、僕はそれが受け入れられなかった。日本人はもっと自罰的な国民だと信じていた。

 今は違う。宮城先生、あなたは正しかった。日本人ほど他罰的な国民は他にないと僕は信じるようになった。特にネット社会になってからは、お互いに他罰的になりあい、罪を付与し合い、そんな権利なんて有していないのに懲罰を課しあっている。お互いに誰かの他罰の犠牲にならないようにと、国民全員が保身に懸命であるように思う。保身に走るのは首相だけではないのだ。

 多くの人が悪者探しをやり、誰かの他罰の標的になり、やり玉に上げられる。他人の外出を監視して、告発する人たちもある。自分たちにそういう権利があるのかどうか自問すらしないで。

 

(異常の正常)

 今までも見えていたように思うけれど、今回のコロナ禍でそれがより見えてきたように僕には思える。政府も国民もどこか異常なのである。しかし、誤解を招かないように言おう、異常なのはあくまでも政府の一部であり、国民の一部である。気持ちとしては「大部分が」と言いたいのだけれど、妥協して「一部」に改めた。

 今、上の文章を読んで「そうだ、その通りだ、同感だ」と思った人はその「一部」に含まれる人である。もしかして自分がその「一部」に入っているかもしれないと思った人はその「一部」に含まれない人である。後で取り上げるのだけれど、前者は後者に比べて自己に対する無関心の度合いが強いと思われるので「一部」の方に含まれるのだ。

 コロナ禍に関して、いろいろなことが言われている。立派な人たちが発言している。それに比べたら僕の言っていることなんか大したことではない。ただ、少しだけ視点が異なっているということは自覚している。

 識者は「正常な人の異常な行動」という観点で見ていることが多いように感じる。僕は「異常な人の正常な行動」という観点から見る。「行動」の中には態度や振舞い、その他思考とか感情、表現も含まれているので、通常の動作よりも幅広い概念であると思っていただければと思う。

 ところで、その両者の観点の決定的な違いは何かというと、前者では行動を改めればいいという発想になる。あるいは思考を正せばいいということになる。それで現に、こういう行動を取りましょうと行動指針を打ち出したり、政府の思考の優先順位を問題にしたりするのである。それらはすべてその行動が正しくないという観点に立っているわけだ。

 後者の方は、人格を正さなければならないということになるわけだ。異常な人にとって正常な行動とは異常な行動であるはずである。それに対して、例えば他人事のように無関心でいられるというのは異常な行動であると僕は思う。そして、それが正常なことになっているとしたら、こちらも異常な人間の範疇に入っているということになる。お互いが正常なことをしているのだけれど、人格が異常であれば、それが異常であることを発見できないのである。その異常な行動は異常な人格において親和的なのである。

 人格を正すとはどういうことか。行動や思考を変える前に、自分の在り方を検討することである。私の存在というものを考えることから始めるのである。人生に対する、あるいは自分自身に対する、他者や世界に対する態度が問題になるのである。

 しかし、今はそこに話を広げないでおこう。

 

(政治に無関心の基礎)

 今の政府がどれだけひどいものか、それがようやく見えてきたという人も多かろうと思う。こんなふうに8年近くもこの政府をのさばらせたのは国民の政治に対する無関心である。

 支持率調査でも、支持派と反対派があるだけでなく、無関心層の票をけっこう集める政党であった。無関心層というのは、「他に良さそうなところがないので支持する」とか「何となくよくやってるから支持する」とか、支持する根拠を明確に持たない支持者であり、これは政治や政党に対する無関心を背景に持っていると僕は理解している。

 国民の政治への関心が薄まっていることはこれまでも指摘された。選挙のたびに投票率の低さが報道されたりする。ここで考えたいのはどうして政治に無関心になるのかである。より正確に言えば、政治に無関心になることの基礎はどこにあるのかという点である。

 しかしながら、この点に関しては答えはほぼ分かり切っている。家庭である。家庭の場で政治のことが話題になったりする、そういうことを経験してきた子供は政治に関心を持つようになるのである(注1)。

 では、家庭で政治の話をするのは誰であるかである。それは父親である。母親が子供と政治の話をする機会はそうそうないだろうと思う。父親がそういう役割を果たすのである。もっとも、家族団らんの場で政治の話しか出てこないというのも、それはそれで困ったことではあるが。

 父親がそういう役割を果たせない場合もあるし、母親が阻止する場合もある。例えば、父親が子供に向かって政治のことを話そうとすると、母親が「そんな話子供には分からないから」などと割って入ってくるような場合である。子どもは外の世界への通路を開く機会を一つ失ったことになる。

 面白いこともある。何人もの「自称AC」の人とお会いしたけれど、彼らの誰一人として「父親が政治の話をしなかったので自分は政治に無関心になってしまった」などという嘆きをしないのである。自分に本当に必要なものは何で、何が本当に与えられなければならなかったのか、彼ら自身も分かっていないのだろうと思う。

 さて、家庭で政治の話なんかをするのは決まって父親である。その父親が不在の場合もある。離婚してシングルマザーになった母子であるとか、父親が失踪して行方不明になったままだとか、子供が幼いうちに亡くなってしまったとか、そういう父親不在の家庭環境で育った人もある。家族での会話がその後の子供の興味を方向づけるものであるとすれば、こういう家庭で育った子供は政治に興味を持つことが少ないかもしれない。

 つまり、結論を言うと(そろそろ書くのが疲れてきた)、政治的無関心の背景に家庭崩壊があるのだ。崩壊家庭が増え、政治的無関心者が増えると、タチの良くない政党がのさばるようになり、その政党がさらに崩壊家庭を生み出す、どちらが先にあったかなんてことは言えないんだけれど、そういう悪循環が続いてきたのではないだろうか。

 

(注1)もちろん確実なことは言えないのであるが、政治に対する親の態度を子供が受け継ぐという指摘もある。

「両親がはっきりした支持政党をもっていなかったり、投票に行かなかったりする場合には、子供の政治的興味は発達しないし、こうした両親を持つ子供は成人してからも、政党に対する帰属感が弱く、政治活動に参加する程度も低いという」(「家族と社会心理学」島田一男、『現代人の病理3・家族の臨床社会心理学』p83)

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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