5月13日(火):闘病記―5
午前3時。物音で目が覚める。ネコか何かが天井裏を駆け抜けていった。外は雨でネコにとっては格好の雨宿り場所なのだろう。
空腹感に襲われている。何か食べたいと思うが、朝まで待とうと決める。
午前9時。あれから本を読んで過ごしたが、いつの間にか寝てしまったようだ。先ほど起床した。朝食は玉子がけご飯を一善。野菜があればもっとよかったが、後で野菜ジュースをどこかで飲むことにする。
今日は、もう少し足のリハビリをする。もう一日、歩いて、足の状態を確認し、ついでに運動不足をいささかでも解消しようと思う。
午前10時ころ家を出る。近所を歩く。結局、今日も大宮がゴールとなった。西から向かっても、東から帰っても、どうしても大宮辺りで「そろそろ帰ろうか」という気持ちになる。
トイレの回数は昨日よりも多くなった。尿もよく出ている。いいことだ。空腹感は、今日はそれほど激しくなかった。昨日よりもましだ。
途中、喫茶店で休憩し、論文を二篇読む。今日は文学という気分ではなかった。お昼は15時ころ。何を食べるかですごく迷う。正確に言うと、何を食べるかではなくて、何が食べることが許されるかという感じだ。迷いに迷う。
結局、レストランに入って、ランチを食する。まともな食事はこれだけだ。
とある家電販売店に入る。ICレコーダーが手持ちの金で買える範囲の値段で販売されていた。買おうかどうしようか迷う。カセットテープはその後の仕事がやりやすいのだけれど、テープももう手に入らなくなっているし、次のことを考えているところだった。散々迷った挙句、次回に見送ることにした。
酒なんか飲んでいなかったら、欲しいものももっと買えていただろうにと思う。もう少しやりたいと思うこともできていただろうと思う。本当に酒を飲んできたことを後悔する。これはこの1,2年の話ではなくて、もっと昔から、僕が20歳頃から今までの話である。
大宮にて、そろそろ帰ろうと思ったその時、衝動的に京福電車に乗った。嵐電というやつだ。それで嵐山まで行って、そこからまた阪急電車に乗り換えることにした。
以前、嵐電に乗るのがマイブームだった時期がある。嵐電にはその魅力があるのだけれど、それはいつか機会があれば書こうと思う。ただ、当時は仕事が終わってからわざわざ嵐電に乗るために迂回して帰宅していたので、当然、夜だ。今回、夕方の時間帯に乗るのだが、初めてではないだろうか。
相変わらず、三条口から車道に乗り込む瞬間は心が躍る。その後、天神通りを超え、太秦へと入って行く。僕は「じわーっ」となってきた。泣きそうな気分になったのだ。高校生の頃、陸上部でこの辺りをよく走っていたのを思い出したのだ。街並みの多くはすっかり変わってしまったけれど、昔の面影を留めている箇所もある。おまけに、いつもこれくらいの時間帯に走っていたのだ。懐かしい思いが込み上げてくる。僕は嵐電に衝動的に乗り込んだのがどうしてだか理解できるように思った。僕自身が如何に変わってしまったか、それも破壊の方向に向かって生きてきたかを改めて感じさせられた。
いつか、当時、高校生だった僕が走っていたコースを歩いてみたい。昔のように走れないから、せめて歩いて回ってみたい。
帰宅して一服する。漬物とご飯一善の夕食を済ませる。テレビではニュースが流れている。覚せい剤のことをやっていた。小学校の校長先生が使用していたことに続き、今回は警察官の使用が発覚したと言う。覚せい剤がネットを通じて手軽に売買されるようになったからだと説明されていたけれど、それは違うだろうと思う。要は、救済を求めているのだ。それを手っ取り早い手段で得ようとしているのだと思う。充分、これは心の問題だと思う。
人間が神経症的になると、なんでも手っ取り早く済ませようとするものだ。物事が進展し、開花するまで待てないからだ。待つということがすごく不安なのだ。あるいは不安な中で待つということに耐えられないからだ。覚せい剤はそういう不安を体験することなく、速やかに救済をもたらしてくれるように服用者に体験させるのだろうと思う。まあ、個人が覚せい剤を使用することになった背景にはもっと複雑な要素がからんでいるだろうとは思うけれど。
しかし、昨日と今日と歩いて、歩きながらいろんなことを考えた。何かを始めたいという気持ちにもなっている。体の方はいつも通りには回復している。ツーの心配もないし、内臓の重圧感とか動機、息切れ、めまいも今日はなかった。明日からはいつものように仕事ができそうだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
この頃は、こうして連休を取る余裕があったのかと、いささか不思議な感じがする。まあ、時には許されるということにしておこう。今の僕には考えられない行為だ。
(平成29年1月)