5月13日(土):唯我独断的読書評~『地獄のハイウエイ』
『地獄のハイウエイ』といってもAC/DCじゃないぜ。ロジャー・ゼラズニイの方の『地獄のハイウエイ』だ。
本書は僕が20代の頃に一読したきりの本だ。面白くなかったというわけではない。その時は3時間くらいで、ほぼ一気読みした。実はそれくらい面白かったのだ。
今回、細かい内容もすっかり忘れているので、読み直してみようという気になったのだが、前回のような一気読みをせず、ゆっくりと読んで作品世界に浸ろうと思っていた。だけど、今回も失敗した。結局、蓋を開けてみれば、今回も一気読みしてしまった。やはりそれくらい面白いのだ。
舞台は戦争後の未来。アメリカ大陸はカリフォルニアとボストンの二国(州ではない)だけが残された。今、ボストンではペストが大流行して、次々に人が死んでいるという。カリフォルニアからボストンまでの血清輸送を、カリフォルニア政府はかつてのヘルス・エンジェルスの凄腕ドライバーであるヘル・ターナーに依頼する。
この主人公ターナーであるが、極悪人で人でなしときた。この危険な任務もこれまでの前科の特赦を条件に引き受けることになる。次のデントン運輸長官のセリフはターナーがどれほどひどい人間であるかを表している。
「・・・おまえは、わたしがこれまでい出会っただれよりも下等な、人間の屑だ。男と見れば殺し、女と見れば強姦。おもしろ半分にある男の目玉をくりぬいたこともある。麻薬密売で二度、売春仲介で三度も起訴された。のんだくれのやくざで、生まれてこのかた風呂へはいったこともないつらだ。おまえとそのごろつき仲間は、戦後の生活をたてなおそうろしている市民を、恐怖におとしいれた。・・・あの「大手入れ」の夜、どうしてほかの仲間のようにくたばらなかったか、それが残念でならん。生物学的見地でしか、おまえは人間といえん。おまえの胸の中はがらんどうだ。・・・わたしは賛成ではない。おまえのような男は、信用できんからだ。こんどの仕事でおまえが死ねば、むしろいい気味だと思う。もちろん成功は望んでいるが、それはほかのだれかであってほしい。それぐらいおまえが憎いんだ」
まあ、よくもここまで罵りの言葉が出てくるものだ。それくらい主人公は鼻持ちならない野郎なのだ。このアンチ・ヒーローの主人公がカリフォルニアを後に、「呪いの横丁」を通って大陸横断の旅に出るわけだ。
放射能に汚染され、異常気象に見舞われる世界で、ターナーたちは度々危機に陥る。ハリケーンが遅い、地面の亀裂やクレーターに行く手を阻まれ、大雨で視界を遮られ、巨大化したトカゲやコウモリの大群に襲われ、野盗のような連中に狙われ、他の車両を失い、仲間も命を落としていく。まさに命がけの任務である。
しかし、この主人公が途中から変化していくのである。彼はこの任務にやりがいを見出していく。ターナーは次のように言う。
「ひょっとするとやってみる価値があるかもしれん。よくわからねえ。やつら(ボストンの人たち)になんの世話になったおぼえもねえしな。だが、やっぱりおれは冒険が好きだし、世界が死んじまうのかと思うとくやしいんだ。・・・ただ、なにもかもがこの「横丁」みたいになっちまうのが、丸焼けになって、ひねくれたくそ溜めに変わっちまうのが、気にくわねえだけだ。・・・おれはちょいと考えさせられた。あんなふうに人間が、いや、なんでもだな、消えちまうなんていやなこった」(p106~107)
彼はこの世の地獄を目にしたのだ。地獄を目にして人間性が回復してきたかのようだ。ところが、彼の改心がこの時点ではよく呑みこめないのである。読んでいて、彼の改心がまだ理解できないのである。
後にターナーたちはある家族に助けられる。その家族の子供から少年時代は何になりたかったかと尋ねられて、ターナーは「機械の番人になりたかった」と答える。
「小学校でならった先公がこういったんだ。世界は大きな機械だ。あらゆるものがほかのあらゆるものを動かしていて、いままでに起こったことはぜんぶ、この作用と相互作用の働きだってな。それを考えてると、おれの頭の中に「でっかい機械」の絵ができあがった。・・・おれはそれがほんとにどこかにあって、つまりその機械がだぜ、それがちゃんと動いてるか動いてないかで、この世界がよくなったりわるくなったりするんだと思った。それでよ、いまはその機械があんまりうまく動いてなくて、だれかが一度ちゃんと直さなくちゃだめだ、直したあともしょっちゅう見張ってなきゃだめだ、と思ったんだ。・・・「おれはいつかそれを探しにいって、見つけてやるぞ。それから、その機械の番人になるんだ。・・・そしたら、なにもかもうまくいくようになる・・・」おれはいつもそう考えたもんさ。その仕事をやりたかったもんさ。どこかの大きな工場か、大きな古い洞穴で、その機械をとびきり好調に動かして、みんなを幸福にしようと、汗水たらしてるおれの姿が、目に見えるようだった。・・・なぜって、おれが機械をごきげんに動かしてるおかげで、みんなが幸福だからさ。それがおれの夢だった。「でっかい機械」の番人。ただ、そいつがとうとう見つからなかったのさ」(p175~177)
この後も、そんな機械はなかったと言うターナーと、その機械はきっとあると主張するジェリー少年とのやりとりが続くが、このシーンはは本作の白眉だ。殺伐とした世界で希望あふれる話がなされるのも感動的だ。
このくだりを読むと、p106~107のターナーの改心の意味がより理解できる。彼が空想していたような機械はなくとも、彼は機械の番人と同じ価値の仕事に就いているわけだ。彼は世界を変え、人を幸福にするという、かつての夢を、そのままの形ではないにしても、実現しようとしているのだ。ここに至って、はじめて僕はこの主人公の人間らしさを感じ、改めてこの主人公に魅力を覚える。
この後もターナーの冒険が続く。ボストンに近づくと、暴走族の一団に続けて襲われる。ターナーは戦い続ける。かつての自分のような連中を倒していくのである。それはあたかもかつての自分を捨て去るための闘争であるかのようだ。彼はもうあの連中と同類でもなければ、仲間でもない。命がけで戦う姿は感動的でさえあった。
車両は破損し、最後はオートバイで血清を運ぶ。それでも野盗と化した暴走族に襲われ、ズタボロになってボストンに着く。そして、自分の任務を終えた後、ターナーはどこかへ旅立つのである。この辺りはマカロニウエスタン調である。
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いい作品だ。読みだしたら止まらない面白さがある。
本作は『世界が燃え尽きる日』の題で映画化されている。映画の方は、原作のシチュエーションだけ拝借して、ストーリーはまったく別物だったけど、映画は映画で楽しめた。主人公のターナーをジャン・マイケル・ヴィンセントが演じたが、原作のようなワルで憎まれ役のアンチ・ヒーロー的な雰囲気はなく、元気のいいヤンキー兄ちゃんみたいな感じだった。原作の主人公は映画化するには相応しくないキャラなんだろう。
本作は、物語の面白さももちろんだけれど、主人公ヘル・ターナーの魅力が大きい。最初は嫌悪感しかない主人公が、だんだん人間らしくなってきて、いつしか主人公を好きになっている自分に気づくのである。地獄というか、最悪の世界を見て、人間らしくなるなんて、「神曲」や「ファウスト」を彷彿させるものがある。表面の泥を落としたら下地から美しいダイヤモンドが現れたような、そんな歓喜の体験をする。
さて、僕の唯我独断的読書評は、出ました、5つ星だ。やっぱり面白いし、いい作品だと思う。
<テキスト>
『地獄のハイウエイ』(Damnation Alley)ロジャー・ゼラズニイ著(1969年)
浅倉久志訳 ハヤカワ文庫
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)