5月1日:憲法9条と時間観念

5月1日(木):憲法9条と時間観念

 昨夜、ニュース番組で憲法9条をノーベル平和賞に認定してもらおうという人たちのことを聴いた。けっこうなことだ。ドナルド・キーン氏の言うように、日本は敗戦後、戦死した人もなければ戦場で外国人を殺したこともない。事実その通りだ。
 もし、受賞したとしたら、受賞者は日本国民一人一人だと述べていた。そうなったとしたら、僕はそれを辞退する。僕にはその資格がないと信じているし、もっと本音を言えば日本人一人一人にその受賞資格がないと思っている。
 日本は確かに第二次大戦後は戦争をしなかった。それは憲法第9条を遵守したからなのか、アメリカの庇護下にあったからなのか、本当のところは何とも言えない。その資格がないと僕が言うのは、国内に目を向けてみれば、そんなことは言えないということなのだ。
 例えば、自殺の問題がある。無差別的な殺人事件の問題もある。いくつかのデータが示しているが、戦時下においては自殺者の数が減少するらしい。また、犯罪も、戦時中では物盗りなどの犯罪は増えるけれど、「人を殺してみたかった」という動機の殺人はまず生じないだろう。人間の死がそれだけ身近に溢れているからだ。今の日本の状況が戦争より悲惨ではないと断言できるだろうか。
 今の日本の状況と戦争中の状況と、どちらがより望ましいか、僕には何とも言えない。でも、確実に言えることは、日本は戦争こそしなかったけれど、何一つとして平和を達成していないではないかと、僕にはそう思われるのだ。だから憲法第9条でノーベル平和賞など受賞する資格がないと思うのだ。

 そうそう、そのニュース番組の前に、実にくだらない番組を観た。ダウンタウンさんの番組で、ケンコバさんがプレゼンしていたのだ。未来を描いた作品が、現実にはその通りになっていないと言って、作者の読みの甘さを指摘していた。バラエティだからそれでいいのだけれど、そこには時間概念に関する混同が見られるように思う。
 小説とか物語とか、それを読む時は常に現在性を帯びるものだ。歴史小説を読んでいる時、読んでいる内容は現在的な性質を帯びる。過去の何かを読んでいるのではなく、現在展開されている物語を読んでいるわけだ。現在の体験をしているわけだ。このことは未来小説でも同じことである。
 例えば、1950年に50年後の世界を描いたSF小説が書かれたとしよう。つまり、小説の舞台は2000年だ。2000年は、現実の我々の時間概念においては既に過ぎ去った年代だ。しかし、その作品を読む時、我々は同じように50年後の世界を読むことになるわけだ。現実の西暦とは無関係にそう読むわけだ。
 時間というのはとても難解な概念だ。外的に規定されている時間というものはある。今日が2014年5月1日であるということは外的に規定されており、どの人にも同じように与えられている時間概念だ。でも、我々は内的には現実の時間枠を超越できる存在である。この文章も昨日の体験を今日書いているわけだが、僕にとってそれは今現在の範疇に属するものだ。僕たちは規定された日時を生きていると同時に、内的には規定されない時間をも生きており、そこにおいて我々は過去にも未来にも行くことができる。だから歴史小説や未来小説も楽しめるのだ。カウンセリングという作業が意味を持っているのも人間のそういう能力のおかげなのだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 憲法9条の方は、僕たち一人一人が平和と幸福を実現していない限り、受賞に値しないということだ。
 時間観念の方は、物語は常に現在性を帯びて読まれてしまうので、50年後の世界を描いた小説は、いつの時代に読んでも50年後の世界の物語として読まれてしまうということである。
(平成28年12月)

 

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