4月9日(木):コロナ・ジェノサイド(20)~外出8割減はほぼ都市封鎖
緊急事態宣言が発出されて、確かに人の数は減っている。専門家によると人との接触を8割減少させないと効果がないらしい。しかし、人との接触を避けるということは、外出を避けるということである。外出すれば人とすれ違うこともあるからである。従って、これは外出8割減というふうに理解してよさそうである。
でも、8割減ってどんなものなんだろう。8割減の状態が分からないので、どうなれば8割減を達成できていると分かるんだろうか。僕は疑問だ。
いっそのこと10割減にしてもいいのにとも思う。10割減、要するに都市封鎖だ。今までと基本的に同じ生活を送っていて、出勤とレジャーだけを制限したところで8割減には至らないだろうと思う。
しかし、都市封鎖はしないというのだ。おそらく補償の問題があるからだろう。政府の給付対策は8割の人が受け取れないというのを読んだことがある。そうだろう。いちいち条件を付けるのであるから。結局、給付が8割減になっているだけじゃないか。
8割の人が利用できない制度を感染リスクを冒してまで議論する議員たちは、僕から見ると、本当に愚かである。しかし、本当は愚かではないのかもしれない。それは今日の最後で述べよう。
さて、オリンピックのことで決定的に判明したことがある。それは政府、トップに否認の機制が働いているということである。
誰がどう見ても開催は無理だったのだ。アメリカの大統領までが延期が望ましいなどと言ったくらいである。客観的に見て絶対無理となっているのに、トップは完全な形で開催するなどとほざいていたわけである。これが否認の機制である。
否認はかなり原始的な防衛機制とされている。乳幼児に見られることも多いが、僕個人は青年期あたりまで見られるものであると考えている。もちろん、そのすべてが「病的」というわけではない。
幼児は、現実の諸困難に対処できるほど自我が育っていないし、また自我そのものが弱いので現実が容易に自我を圧倒してしまう。そういう現実を否認しないと自分が守れなくなる。幼児にとっては必要な機制なのである。
青年は、現実を見ないとか吟味しないとかいうわけではないにしても、経験が伴っていない分、どうしても現実を現実的に吟味できず、幾分かは否認してしまう傾向を持ってしまうだろうと僕は考えている。
大人になる。さまざまな経験をする。少しずつ現実吟味能力が試され、かつ、身について行くものであると僕は考えている。
経験とは別の柱もある。それは関係である。現実否認の機制を働かせてしまう人に対しては、代わりに現実を見てくれる「保護者」が必要である。幼児はもちろん青年もまたそういう人を必要とする。この「保護者」が彼らの中に取り入れられる。この「保護者」が果たしていた機能が、今度は児童や青年の中で働くようになるわけだ。
この「保護者」に恵まれなかったと嘆く人たちがいる。「自称AC(アダルト・チルドレン)」たちだ。彼らは親から愛されなかったといった訴えはするけれど、現実機能を果たしてくれなかったと訴えることは稀である。本人たちも気づいていないだろうと僕は思うのだが、現実機能が働いていないということの現実吟味ができていないということである。
現実否認をしてしまう人に対しては、その人に代わって現実機能を果たしていく必要がある。これは医師とかカウンセラーとかセラピストとかの重要な仕事の一つである。一時的に「保護者」役を引き受けなければならないわけである。
さて、話を戻そう。日本のトップが現実否認の機制を働かせる。オリンピック関連に限らず、検査体制のことにしろ、感染者数のことにしろ、危機意識にしろ、マスク配布の愚策にしろ、その他クルーズ船の対処にしろ、渡航や入国の体制にしろ、すべての政策にその機制が働いていると考えてもいいと僕は思っている。だから現実に根差していない政策になってしまうわけだ。
それを食い止めようとすれば、トップの「保護者」を設定しなければならないのである。国民を保護するトップが保護者を必要としているわけだ。恐ろしく危険な状態である。専門家たちは現実機能を代替するが、トップの否認機制により、専門家の意見は取り入れられないか歪曲されてしまう可能性が高くなるかもしれない。
では、現実吟味しよう。外出を8割減らす。専門家のこの見解が正しいものであるとすれば、僕たちはほとんど外出をしてはいけないということなのだ。人との接触、移動を8割減らすということは、僕たちはほとんど人と会ってはいけないのであり、ほとんどどこにも行けないのである。
毎日買い物をする人は、10日に2回だけしか買い物してはいけないということなのだ。それでも買い物の自由は認めるというのだから矛盾しているわけだけど、この矛盾に気づかないのも否認が働いているせいである。
同じく、出勤も10日に2回だけということなのだ。1日出勤したら5日分の仕事をそこでしなければならないわけである。それでも出勤は許可されているのである。
健康のために毎日30分散歩しているという人は、10日に2回に減らすか、1日の散歩時間を4分程度に減らさなければならないわけだ。
政府は外出8割減がどういう生活になるかを現実検討できていないということなのだ。僕はそう考える。8割減は限りなく都市封鎖に近いのである。現実的に考えればそうである。でも、政府は都市封鎖ではない、都市封鎖はしないなどと言っているわけだ、これまで通りの生活はしてもいいなんて言ってるわけだ。現実否認のなせる業である。
外出8割減を実現させるとなると、多くの企業や店舗が休業しなくてはならない。そうした企業や店舗だけでなく、そこで働く従業員や経営者に対しても補償をしなければならなくなる。しかし、この政府は補償を出し渋るわけだ。
この出し渋りが現実否認によるものでないとすれば、それは別の目的があるということだと僕は勘繰りたくなる。
ここで多くの企業や店舗が倒産し、生活困窮者が数多く生まれるとしよう。つまり生きていけなくなるわけである。でも、そういう状況でも、そういう人たちが生きていける場があるのである。そうすると、この国にそういう場があって良かったねということになる。
その場とは、つまり、自衛隊である。将来の自衛隊員確保のために補償を出し渋っているのではないかと、そこまで僕は思うのだけれど、これが僕の被害妄想であればいいと思っている。
でも、僕の妄想とばかりとも言えないのだ。アメリカにはそういうところがある。アメリカはあれだけ繁栄しているのに、どうしていつまで経ってもスラム街がなくならないのか。スラム街で育った人は生きていく術がないので軍隊に入るということも聞いたことがある。つまり、進んで軍隊に入ってくれて、進んで戦場に行ってくれる人材を確保するためにも、スラム街が必要とされているわけである。
日本も同じようになるのかもしれない。生きていけない国民を生み出すことで自衛隊への誘惑を高めようという思惑があるかもしれない。そうであれば、政府はなかなか戦略家が揃っていることになる。
ともかく、日本は危険である。コロナの危険よりも、政府やトップがそれ以上に危険である。国民や専門家が彼らの現実機能を代理しても、それらがまた否認されてしまうのであれば、どうしようもない。
よく「精神病は治らない」と言われるけれど、それは半分しか正しくなくて、精神病においては多くのことが否認されてしまうので治療的アプローチがなかなか本人に作用しないのである。この国全体がそうなってしまうように僕には思われてならない。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)