4月8日(月):「4人旅の夢」
数日前、夢を見た。こんな夢だった。「4人旅の夢」と題しよう。
「僕たちは4人で旅をしていた。
山道に差し掛かった。僕たちは山を歩く。分岐点に来た。僕はここで山を降りるということがわかっている。降りた所にバス停があるということをなぜか知っているのだ。
でも、二人が我先にと稜線の方に向かい始めたのだ。僕は彼らに待てと声をかけるが、僕の声は届かない。
仕方なしに、僕ともう一人のメンバーが彼らの後を追う。稜線を歩いたとしても、結局、この先で降りることになるし、降りれば道路を歩いてここまで戻ってくるだけだった。若干の回り道にはなるけれど、それも大したことはないと思い、彼らについて行く」
僕以外の三人は実在の人ではない。暴走する二人は男性だった。もう一人は男性だったか女性だったか、はっきりしない。
暴走する二人は僕の中の衝動性だと思う。僕は彼らを完全にはコントロールできないでいる。でも、幾分、余裕を持って彼らに従っている。だからあまり危機感はない。
もう一人の影が薄いために、この二人を止めることができなかったのかもしれない。この影の薄い参加者は一体なんだろうと思う。とても不思議な存在に感じられている。
もう少し場面を振り返ってみると、この二人は稜線歩きを楽しんでいた。子供が校庭に駆け出して行くような感じだ。僕はここで降りるのが近道だと、いささか現実的で打算的な考え方をしている。恐らく、僕は彼らのようには稜線歩きを楽しんでいないのだろう。
また、彼らが暴走するのを僕は止めようとしている。僕の押しの強さが出ているのかもしれない。僕自身は押しが強いとは思わないのだけれど、時々、そういう一面が出ることがあるようだ。
押しが強いのは、僕から見てそうするのが望ましいと思えるという場面である。どうも、これが正しいとか信じ始めると、僕はかなり頑固になるようだ。僕自身はそれを信念のようなものと捉えているのだけれど、周りはあまりそのようには見てくれないようだ。
影の薄い参加者もまた、僕のある一面なのだろう。表に出ることなく、静かに付き従うような一面だ。ある意味、従順と言ってもいい。そういう一面が僕にはあると思う。
暴走するのが二人というのは、それだけ、今の僕には彼らによって表されている部分が強いのだろう。ある面ではとても衝動的になる。もちろん、この衝動性は自己破壊的なものではない。考えるよりも先に行動してみるという形の衝動性だ。
最近、とても活動的になっている。否応なしにそうならざるを得ないというのも事実だ。いくつか計画していることのために、面接や仕事の合間を縫って、毎日、駆けずり回っている。行動している自分を体験する。
夢の中の二人は、それを愉しんでいる。愉しいから飛び出すという感じだ。それも間違ったことをしているわけではないし、悪いことをしているわけでもない。彼らのやりたいように任せても大丈夫なのかもしれないし、活動していることを、もっと子供のように楽しんでいけばいいのかもしれない。
でも、その一方で、僕はどこで降りるのかを知っていなくてはならない。どこに向かうべきなのかをやはり見据えていなくてはならない。夢の中で、僕がこの役割を取っているのは、そういうことなのではないかと思う。暴走する一人に僕はならなかったのだ。影の薄い一人にも僕はならなかった。僕が同一視している役割に、夢の中で、僕はなっている。夢の中の僕は、どこで山を降りるべきかを知っている。恐らく、4人の中でそれを知っているのは僕だけだ。衝動が優位になっても、僕は自分の降りるべき点を見据えておかなければならないのだろう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)