4月7日:子供のスマフォ規制

4月7日(月):子供のスマフォ規制

 昨夕、ニュース番組で、子供のスマフォ規制のことをやっていた。静岡県のある市だったと記憶しているけれど、児童の夜9時以降のスマフォ使用を禁止するという条例を発したのだ。ある家庭を取材していたが、案の定、子供はスマフォを手放すことができず、親もまたなぜそれがいけないことなのかを子供に分かるようには説明できなかった。
 番組に出演していたコメンテーターも、自動車という便利なものができると、新たなに環境汚染の問題などが生じるように、新しく出てきた便利なモノには弊害が伴うという話をされていた。そこまでは理解できる。でも、その人はその後、スマフォの弊害はこれから出るとコメントされていたように思う。そこは僕は意見を異にする。
 すでに弊害は出ている。取材されていた家族の子供たちにもすでに弊害が見られていた。それは心と生活がスマフォに支配されるという弊害なのだ。ああいう、スマフォやタブレット機器に隷属してしまっているのだ。自分でも意識しないままにそうなっているのが怖い。
 ラインというものを彼らはするのだ。一日に数十回から二百回くらいのやりとりをラインでするそうだ。どれだけの時間と関心をそこに割くことになるだろう。外側のことをいろいろ吸収できて、世界を広げていくことのできる十代の子供たちが、その狭い領域に縛りつけられてしまうのだ。
 ラインをやるのもその個人の自由だと言われそうだが、僕はそれに耽ることは人格形成上望ましくないと考えているし、稀薄な自己しか形成できないだろうと思う。なぜなら小さな世界で、常にライン上の相手の顔色ばかり窺うような状況で生きているからだ。広がりと深化が見られなくなるだろうと思う。
 その人たちが大人になる。すべての人がそうなるとは言わないけれど、その一部は、稀薄な自己に耐えられず、自己を証明するために人を攻撃するようになるかもしれない。その時、被害に遭うのは、私個人となるかもしれないし、私を含めた社会であるかもしれない。そうなると、この問題はやはり他人事ではないような気もする。
 そんなふうに書くと、僕の思考が飛躍しすぎていると思われるかもしれないし、そう思われたとしても当然のことだ。途中の説明をすべて省いて述べているのだから。でも、それはいいとしても、昨日の映像を見ていた限りでは、子供には自由がないなと感じてしまう。「楽しい」は「自由」を意味しないものだと思う。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 規制は必要である。でも、規制するだけでは、何も変わらない。規制を課すと同時に、我々が知恵を得ていかなければならない。目指されなければならないのは、規制そのものではなくて、規制によってもたらされる成熟である。
(平成28年12月)

 

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