4月4日(水):道を尋ねられて
今日、通りを歩いていたら、道を尋ねられた。中年の女性だった。僕はたまたまその場所を知っていたので、その女性に教えてあげた。その後で、僕はそれが道のどちら側にあるかということを伝え損なったことに気がついた。その場所は教えたのだけれど、それは本当は僕たちがいるのとは反対側の通り沿いにあるのだ。僕は思わず「しまった!」と思ったが、もう遅い。
それからしばらく、僕はすごく悪いことをしたような気持ちに襲われた。しかし、その後、僕はその中年女性のことを卑下している自分に気がついた。その女性が現地に着いたら(その場所はきちんと教えている)、周囲を見回すだろう。そうすれば通りの向こう側に目指す建物があるのを発見するだろう。それくらいのことは人間誰でもするものではないかな。僕はその女性がそういうことをできない、あるいはしない人だと勝手に思い込んでいたのだ。僕が全て完全に教えないと、彼女は目的地に辿り着けないなどという感覚を抱いていたのだ。それはその女性を価値下げしていることにならないだろうか。周囲を見回すくらいの主体的行為ができない人だというように見くびっていなかっただろうか。僕は自分でとても親切なつもりでいただけなのではないだろうかとも思う。
人はある程度年齢を重ねたら、手取り足取り教える必要はないと僕は日頃から考えている。そういう教え方が必要なのは児童、それもごく年齢の幼い児童だけだ。大きくなると、自分から学ぼうとするし、真似をしようとする。自分なりに試行錯誤していくものだ。
だから道を尋ねてきた女性に、その場所の大体の行き方を示すだけでも、その女性はきっと目的地に辿り着けるだろうと思う。その場合、彼女は少し探し回るかもしれないけれど、その程度の労力は問題にならないものだ。僕はそれよりももう少し細かく行き順を教えたので、目的地近くまでは問題なく行けたはずである。僕は自分の役目、期待される役目はきちんと果たしたと、今ではそう思っている。後はその女性本人に任せれば良いだけなのだ。だから教え損なった部分があったとしても、気にする必要もないのだ。そう思うようになった。
物を教えるということもそういうことだ。知っている人は知らない人に対して、大体の行き道を示してあげるだけで良いのだ。後はその人が自然に辿り着けるということを信じておればいいのだ。後はその人を信頼しておけばいいのだ。相手を信頼できないから一から十まで逐一教えてあげなければならないという感情を抱いてしまうのだろう。嘘や間違ったことさえ教えていなければ、その人は正しい目的地に辿り着けるものだと僕は思う。事細かになりすぎるのは、却っておせっかいというものだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)