4月29日(日):過去の人
今日はアルバイトで滋賀県の現場に行っていた。朝早く家を出て、夕方には帰ってきた。それからパソコンを取りに高槻の職場まで出向き、喫茶店で書き物をしている。このブログはそこで書かれたものである。
体調は芳しくない。胃腸の具合が悪く、腹具合がよろしくない一日だった。昨夜食べたものがあまりよろしくなかったなと、思い当たる節がある。まあ、それはいい。これから気温が高くなるので、食べるものには注意しようと改めて気づいたまでだ。
それより、今日は久しぶりに竜王の三井アウトレットモール前を通りかかった。昨年、女性友達とここに来たことがある。買い物が目当てではなく、彼女が仕事関係の人とここで待ち合わせをしていたからである。僕はそれにのこのこついて行ったのだ。一時間ほど商談で中断されたとは言え、その日、一日僕は彼女と一緒だった。そして、その日が彼女との最後のデートになったのだった。
今日、それをきっかけに、僕は彼女のことを思い出していた。彼女と別れて不幸だったかと訊かれたら、僕はそんなことはないと答える。必ずそう答える。と言うのは、当時よりも今の方が僕は幸せだと感じているからである。これはウソではないし、見栄でもない。本当にそう感じているのだ。
そういうきっかけがあると、僕は彼女のことを思い出すことがある。これは事実である。時には思い出すのである。でも、取り戻したいという感じはない。過去に知り合った人の一人という感じでしかない。それは例えば、僕は小学校三年生の時の担任の先生を思い出すことができる。その先生はけっこう厳しい先生で、僕は非常に怖がっていた。今では、その先生のことを思い出すこともできるし、その先生が僕にしたことも普通に思い出すこともできる。でも、それで僕が掻き乱されたりはしない。それと同じことだ。小学校三年生の時の担任の先生のことは、小学校三年生の時代にきちんと置いておくことなのだ。30年前のことは30年前にしていくこと、そして30年前の人としてその先生を思い出し、時に再体験することなのだ。
僕は女性友達のことを忘れたわけではない。あれだけ僕に影響を及ぼした人なのだからそんな簡単に忘れるなんてできないだろうと思うし、そうすることはむしろ弊害さえある。ただ、僕の中で、彼女のことを「去年の人」にしていく必要はあった。僕はその作業に昨年の12月から今年の1月にかけて励んでいたように、今では思う。
今の僕にはYさんがいてくれるので、幸せである。別に彼女自慢をするつもりはない。女性であれ、男性であれ、僕は「この人がいてくれて幸せだなあ」とか「この人と会えてよかったなあ」とかいう体験をする度に、僕は自分の中にある憎悪や敵意が和らいでいくのを感じる。本当にそのことがとても大切なのだとつくづく思うようになった。
昨日のクライアントにもそういう体験を重ねていってくれたらなあと思う。いや、他のクライアントたちにとってもそうだ。僕と出会った人が、「寺戸さんと会えて良かったわあ」と思ってくれたら、僕はすごく嬉しく感じる。僕がこの世に存在した意味があるというものだ。99%の人が僕を憎んで、1%の人にしかそのように思ってもらえなくても、僕は全然構わない。僕は敬虔なクリスチャンではないので、敵のために生きるよりも、その1%の人たちのために生きたいと思うのだ。
僕は、自分の体験からそのような考え方をするようになったのだけれど、これは僕の肥大した自己愛のためなのかどうか、僕には分からない。
でも、憎悪はそうやって消えていくものだということを、最近、僕は特に感じるようになっている。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)