4月26日(日):コロナ・ジェノサイド(34)~コトバ(1)
コロナに関する報道とか会見を見ていると、不思議な言葉が飛び出すなあと僕は感じている。
以前も書いたけれど、例えば、オリンピックを完全な形で実施するという表現がある。「完全な」という形容詞が不思議だった。あれは反動形成的な誇張であると僕は見做している。そして、それはオリンピックの開催不可に対する反動形成だけでなく、首相の中で何かが壊れ始めていたことのサインであったかもしれないと、今では思う。
今の話は少し説明を要するかな。例えば、自分に何か悪いものを体験している人は自分を良くしようと欲する。これはまだいいわけだ。しかし、本当に悪くなっている人ほど、あるいは決定的に悪くなっている人ほど、完全に良くなろうと欲するのだ。何かに「完全」を求めたり目指したりするとき、他の何かが決定的に悪くなってることがあるわけだ。これ以上の悪化や崩壊を食い止めるためにも「完全」を目指さなければならなくなるわけだ。
そうした言葉とか言い回し、表現にまつわる話をしようと思う。
(「ステイ・アット・ホーム」と言え)
あまり個人名を出すわけにはいかないんだけれど、「ステイ・ホーム」と国民に訴える人がいる。すぐわかるかと思うけど、それは東京都知事のことだ。テレビで都知事がそれを言う場面に遭遇するたびに、「ステイ・アット・ホームと言え」と毒づいているのは僕だけだろうか。
ステイ・ホームと言おうと、ステイ・アット・ホームと言おうと、確かにどちらも同じような意味になる。しかし、なんていうのか、「ステイ・ホーム」の方は「(家から)出るな」という禁止のニュアンスを僕は受ける。禁止で尚且つ命令形なので、語調がキツく感じられてくる。
正直に言えば、いちいち英語で言わんでもいいのだ。「家にいてください」だけでいいのである。そこに屋上屋を重ねるように付け足すからおかしな感じを僕は受け取る。まあ、「ステイ・ホーム」(家から出るな)の方が本音かもしれない。本音をそのままでは出しづらいので英語にしたのかもしれない。しかし、こういう邪推はあまりしないでおこう。
(「私たちの警戒が何となく緩んでしまい」)
某専門家の先生の言葉である。
3月の連休ではこれだけの外出者が増え、その後これだけ感染者数が増えた。5月の連休でこれだけの外出者が増えると、その後でこれだけの感染者数が出るだろう。そんなふうに3月の連休の事例と5月の連休の予測とを並列させるだけならあの発表は何の問題もなかったと思う。
しかし、3月の連休に言及する際に、「私たちの警戒がなんとなく緩んでしまい」という一文を挟んだために、まったく意味の分からない発表となった。僕はそんなふうに感じている。
さて、この一文を考察するために、この文章を構成している要素に分けてみることにする。「私たち」、「なんとなく」、「気(警戒)が緩んだ」の三要素を取り上げる。個人的には「警戒」も、この発言の前に含まれている「残念ながら」も取り上げたいのだけれど、上述の三要素のみにする。
さて、文中の「私たち」というのは誰のことを指しているのだろうか。「なんとなく警戒が緩んだ人たち」とは誰のことなのか。
最初に思い浮かぶのは、連休中に外出した人たちである。それなら、「私たち」とは言わなくてもよさそうなものである。「一部のなんとなく気が緩んだ人たちが都道府県をまたいで外出した」と言えばいいのである。従って、この「私たち」は連休中に遊んだ人を明確には指してはいないのである。
もう少し広い範囲であるかもしれない。そうすると、「私たち」とは、①国民、②議員や専門家、③両者をひっくるめた全員、といった可能性が浮かんでくる。これは発言者がどういう立場で言っているかによって「私たち」の中身が変わってくる。一国民として発言している場合と専門家の立場で発言している場合とでは、「私たち」の意味内容が異なってくる。
僕はあれは専門家の立場で発表されたものだから、「私たち」とは「専門家たち」のことなのだと理解している。つまり、専門家が警戒心を緩めたので人の流れを制限できなかったという内容になる。もし、そういう意味であるとすれば、今後努力をするのは専門家であるという結論に至るのだけれど、この発表の結論は国民が努力することになっている。そうすると、僕の中では辻褄が合わなくなってくる。
あの発表を聞いていると、3月に気が緩んだ主体と5月に努力する主体とは同一でなければ話がおかしくなってくると思う。専門家の気が緩んで、だから5月に専門家が努力するというのであれば、「私たち」でいいだろう。国民の気が緩んで、だから5月に国民に努力を求めるというのであれば、「あなたがた」とか「国民の方々」とか、そういう呼称をするだろうと思う。
僕は「私たち」というのは専門家とか政治家を指していると解釈しているが、それを裏付けると思われるのが「なんとなく」という挿入句である。「なんとなく」とは何だろう。
要するに、警戒心が緩んだ背景とか理由が不明瞭なのだ。漠然としているか、あるいは気分的にか感覚的に「気が緩んだ」と決定されているのだと僕は思う。その理由は分からないけど、気が緩んだような気分を感じるとか、気が緩んだような感じがするとか、なんらかの「感じ」というニュアンスを帯びることになると思う。
もう少し言えば、「なんとなく」というのは言語化できない何かを指している。では、人がなかなか言語化できないものは何かということになる。僕はクライアントたちからも「なんとなく」という言葉を聞くのである。僕の経験に照らすと、それは自分自身に関して言われることが多いのである。
例えば、自分がなんでそれをしたのかといったことを考えると、「なんとなく」そういう気分だったとか、「なんとなく」それをするのが正しいと感じたとか、そういう表現がなされるのだ。一方、その人が誰か他者について言う場合には、あまり「なんとなく」という表現は使われない。あの人があなたに対してなんでそれをしたと思いますかといったことを尋ねると、「私のことがきらいだからだ」とか「あの人が人格障害だからだ」とか、そういった答えが返ってくる。その正否は別としても、何らかの明確な答えが返ってくるわけである。「なんとなく」という言い回しは、他者に対してよりも、自分自身に対して用いられることが多いと僕は考えている。
従って、この発表における一文は、「私たち専門家も理由の分からない何かによって警戒心が緩んだために」という意味になってくる。
さて、最後に「気が緩んだ」を取り上げよう。
これがもし、「私たちの気が緩んだのでしょうか」とか、「国民の気が緩んだのか」とか、この発表者の個人的な憶測として言われているのであればまだ引っかかるところは少なかったと思う。この先生はそれを気の緩みと捉えているんだな、くらいで終わる話である。
しかし、「私たちの警戒が何となく緩んでしまい」と、警戒心が緩んだことはあたかも決定事項であるかのように語られているところがおかしいのだ。警戒が緩む、気が緩むとみなしている確かな根拠を提出してもらわないと、どうしてそのように決定されたのかが不明である。これこれこういう理由で警戒心が緩んだということを述べなければならないわけである。
3月の連休における人々の外出はすべて警戒の緩みのためであると決定されており、あるいは警戒の緩みということで片付けられているのだ。その時の外出の増加が警戒の緩みによるものであることを示す何らかのデータでもあるのだろうか。いずれにしても、警戒の緩みと結論付けられている以上、そこからさらなる追求は望めそうにない。
さて、「警戒が緩んでしまい」と、あたかも確定した事実のように断定されているわけであるが、この断定が問題であるわけだ。もし、根拠なり証拠なりがあるのなら、この断定は許容できる。しかし、既に述べたように、根拠や証拠は「なんとなく」だけであり、「なんとなく」という理由だけでは「警戒が緩んだ」という結論は下せないわけである。
では、根拠や証拠が乏しく、「なんとなく」という「感じ」だけで断定するとはどういうことであるだろうか。僕の結論を言うと、この断定は心的投影なのである。
例えば、僕はCさんと知り合いになりたいと思う。それでCさんがどんな人なのか知りたいと思う。そこで、Cさんと既知の間柄であるAさんとBさんに「Cさんってどんな人?」と尋ねたとしよう。
Aさんは「Cさんはなんか大人しい感じの人」と答え、Bさんは「Cさんは陰険な人」と答えたとしよう。両者の返答の内容ではなく、ニュアンスとか構図の違いが見えるだろうか。Aさんは、AさんがCさんから受けている感じを答えている。BさんはCさんを断定している。Aさんは、現実のCさんとCさんから受け取っている自分の印象とを区別しているわけである。Bさんは現実のCさんと自分の印象とを一緒くたにしているわけだ。そして、Bさんに属している観念がCさんに属しているものとして語られているわけである。Bさんが、仮に、「Cさんって、なんか陰険な感じの人」というようにそれを自分の「感じ」として言えば問題はないし、「Cさんは陰でこういうことをやっていることが分かっている(そういう証拠がある)から陰険な人だ」と、根拠を提示すればまだ理解しやすくなるだろう。それでも、それはCさんのことを断定できるわけではなく、Bさんの持っているCさんの像を述べているに過ぎないのであるが。
では、BさんはどうしてCさんのことを「陰険」と断定できるのか。それはBさん自身の中にそれがあるからである。そういう場合が多いと僕は感じている。Bさん自身が「陰険」なのだ。それを外在化し、Cさんに投影しているのだ。それはCさんに属しているようにBさんには見えているのだけれど、本当はそれはBさんに属しているものなのだ。Bさんはそれが自分に属しており、尚且つ自分ではそこに目を向けることができないので、それはCさんに属しているものであり、Cさんに属していなければならないもの(要するに断定する)なのだ。
さて、話を戻そう。警戒が緩んだ主体は専門家である。それが国民の警戒が緩んだかのように聞こえてしまうのである。意味が曖昧になってしまうのは、発話者である先生の中で混乱が起きたためなのだと思う。自分(たち)と他の人(たち)との区別が曖昧になってしまったのではないかと思う。そうして自分たちに属している事柄が相手に属しているかのような言い回しになってしまったのだと思う。主客の混同が起きているということであり、こういう混同が起きるとすれば自我の統制力が弱まっているように僕は感じるのである。従って、専門家の先生も精神的な危機感に圧倒されているのではないかという気がしている。
それでは、あの発表を辻褄の合うようにまとめてみよう。こうなると思う。
3月の連休で、我々専門家の警戒が緩み、都道府県をまたいだ人の流れを抑えることができず、感染を拡大させてしまった。5月の連休では我々専門家が一層の努力をして人との接触8割減を達成したいので、国民の皆様に協力をお願いする。我々も警戒を緩めずに努力するので、国民の皆様も一緒に警戒を緩めずに努力してほしい。
こういう内容ならスッと頭に入ったのである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)