4月22日:キネマ館~『道』 

4月22日(土):キネマ館~『道』 

 

 映画も観たい。新しく何かを観るのではなく、かつて観た映画でもう一度観ておきたいと思うものを観たい。映画館でいうところのリバイバル上映みたいなものだ。 

 僕のリバイバル第1弾はフェデリコ・フェリーニ監督の『道』だ。名作中の名作だ。こういう作品を取り上げて、こういう名作も僕は観るんだということをアピールしておこう。どうも僕はグロい映画ばかり観ていると思われてるようだ。そんなこともないよというところをアピールしておこう。 

 

 物語は少々理恵遅れの娘ジェルソミーナが旅芸人のザンパノに売られるシーンから始まる。個人が物品のように取引されるシーンだが、ここにすでに「価値」の問題が描かれているように思う。 

 ザンパノという男は、怪力の持ち主で、鉄製の鎖を胸の筋肉で切断するという芸をするのだが、粗野で乱暴な男である。彼はジェルソミーナに芸を仕込み、家事をさせ、夜のお相手までさせるなど、ジェルソミーナを粗野に扱うわけだ。 

 ジェルソミーナは一度ザンパノに見切りをつけて逃走する。一人で町を放浪するジェルソミーナ。キリスト教の祭事が行われている。長々とそのシーンを見せつけられるわけだが、この映画がキリスト教的なテーマを扱っていることがここで示されているように僕は思う。 

 逃走も束の間、やがて彼女は再びザンパノに連れられることになる。あるサーカス団で綱渡り芸をする若者と出会う。自分は役に立たないと落ち込むジェルソミーナに彼は道端の小石を拾って、存在するものはすべて価値があり、こんな小石でも何かの役に立っているのだと説得する。ジェルソミーナはこれに励まされる。 

 その後、ザンパノが、おそらく嫉妬心なども絡んでいるのだろうけれど、綱渡り芸人を殴り殺してしまう。その光景を見たジェルソミーナは衝撃を受け、以後、精神不調に陥る。現在で言えばPTSDということになろうか。 

 彼女は精神的におかしくなり、芸にも支障を来すようになる。ザンパノはある日、眠っているジェルソミーナを置いて、去っていく。彼女を置き去りにしたわけだ。 

 それから数年。ザンパノは相変わらず怪力芸を疲労しては金を稼ぐ。そんなある時、ジェルソミーナが歌っていた歌が聞こえてくる。だが、歌っているのはジェルソミーナではなく洗濯女だった。彼はその洗濯女からジェルソミーナの行く末を知ってしまう。 

 その夜、ザンパノはいつも以上に酒を飲み、荒れまくる。海岸にたどりついたザンパノはそこでくずおれ、大泣きする。これがラストシーンだ。 

 

 さて、僕が書くとこれのどこが感動なのか全然伝わらないことだろう。まあ、僕の書いたものなんかを読むよりも一見した方が早いのであるが。 

 ところで、僕は若いころにこの映画を観た。20代前半頃だ。VHSのレンタルビデオで観たものだ。当時もいい映画だなとは思っていた。およそ30年後に観なおしてみると、「存在と価値の非分離」のテーマを描いているのだと思った。若いころは素直に感動していたのに、ずいぶんややこしい大人になったなと我ながら思う。 

 「存在と価値の非分離」とは、存在するものはそれだけで価値があるという意味である。キリスト教的人間観であり、そのルーツをたどるとアウグスティヌスに行き着くらしい。この世に存在するものはすべて神の意志によるものであるから、存在するものにはすべて価値があるということである。存在とその価値は分離できないというわけだ。 

 ギリシャ哲学にも同様の思想がある。すべて存在するものにはイデアがあるということだが、ただ、そのイデアにはヒエラルキーがあるという。そこに違いはあれど、基本的にキリスト教的人間観と同種の考え方をしていることに違いはない。 

 ジェルソミーナが自分は何の役にも立っていないと嘆く時、彼女の中では自分という存在と自分の価値とが分離しているのである。彼女には世界がそういうものとして体験されていたのだろう。そういう世界に生きることは辛いことである。 

 綱渡り芸人は、そうではなく、存在と価値は非分離なのだと説いているわけだ。彼女が励まされるのは、世界が存在と価値の分離したものではなく、両者が非分離であることを知るからである。両者が分離した世界が真実なのだと彼女は思っていたが、それは幻想であり、両者が非分離な世界が真実なのだと知らされるわけである。僕はそう思う。 

 ところがザンパノが彼を殺してしまうのである。この殺人事件の現場を目撃したこと、ザンパノがどういう人間であるかを本当に知ってしまったことなどが彼女にとってショックだったということを僕は否定しないのだけれど、もう少し彼女の内面的な体験を見てみよう。 

 存在と価値が非分離だと説得した人が、まるで無価値なもののように呆気なく殺されてしまうのだ。意味もなく、命を落とすのだ。彼女にとっては、存在と価値が非分離な世界が真実だと思えていたのに、そうではなく、両者が分離している世界が真実だったのだと思われてしまう瞬間ではないだろうか。両者が分離している世界とは、彼女にとって真実であってほしくない世界であり、そこで生きたいとは望まない世界ではなかろうか。 

 ザンパノがそこに追い打ちをかける。彼女が足手まといになってきて、彼は彼女を置き去りにするのだ。見捨てるわけだ。彼女にとってはますます自分が価値のない人間だと信じてしまうような体験を彼女はしてしまうのだが、そこは映画には描かれていない。ただ、最後に洗濯女の口を借りて語られるのみである。 

 さて、このように観ると、この映画は救いようのない作品のように見えてしまう。でも、ラストに救いが訪れる。ザンパノが海岸で一人泣き崩れるのは、ジェルソミーナの存在がいかに価値があったかを思い知るからではなかろうか。最後に存在と価値が非分離であることをザンパノを通して僕たちは確信するのだ。 

 

 僕はそんなふうにこの映画を観る。だからこの映画、ジュリエッタ・マンシーナ(フェリーニ監督夫人だ)演じるジェルソミーナよりも、アンソニー・クイン演じるザンパノに僕は共鳴する。両人とも名演技だけれど、アンソニー・クインは本作が一番いい。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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