4月20日:心理学の本 

4月20日(金)心理学の本 

 

 夕方、職場のポストを覗いてみると、IT企業の広告が入っていた。そこは利用者と専門家をつなぐというビジネスをしているそうだ。そこで僕に加入しませんかという案内のパンフである。 

 専門家がそこに登録する。利用者も登録する必要があるようだ。利用者は各種の専門家にメールか電話で接触する。そこに利用者が負担する料金が発生して、その料金の一部が専門家の所に、残りがその企業の懐に入っていくというシステムだ。僕はまったく興味がない。専門家を利用して儲けようという意図が見え見えである。 

 でも、呆れたのはそのことではない。初回が6分であるというその時間である。利用者に対して、6分で何をしろと言うのか。あまりにも専門家をバカにし過ぎるので、僕は無性に腹が立った。 

 利用者がメールで質問し、専門家が答える。これで成り立つ分野もある。でも、カウンセリングはそういうものではないのだ。メールで返事を読んだからとって、その人が何かを体験したわけではない。 

 同じことは、心理学の本を何冊も読んで自分の問題を解決しようという愚かな人たちに対しても言える。本は本に過ぎない。一冊の本を読んでも、一冊の本以上の体験はないものだ。一冊の本から超えることはまずないものだ。だから、僕は普通に考えられていることと反対の立場を取るのだ。本をたくさん読んだ人が偉いとは限らないと。 

 本当に偉いのは、自分の日々の体験を自分のものにしていく人だと僕は考えている。そして、常に自己を超越しようとしている人が偉いと考えている。僕もそこまでは完全には至っていない。 

 どんな分野の本であれ、本を読んで、その本の枠内の体験で留まることがまず大部分の人であろうと思う。その本を基に、自己を超越していく人はごく少ない。本を読んで、「ああ、そうだったのか」と分かったりとか、せいぜい視野がわずかに広がったに過ぎない場合が本当に多いと思う。 

 本だけではない。こういうサイトやメール、ツイッターなんかも同じである。僕のこのサイトやブログも然りである。きっと、このサイトはいろんな人が読むだろう。でも、僕の書いたもののどこを探しても、その人の求める答えなんかないと僕は信じている。 

 僕たちはそれぞれ、自分の中に有るものからしか学べないものだ。外から与えられるものは、ほとんど意味がないことも多い。 

 今から20年近く前のことだけど、「平気で嘘をつく人たち」という本がベストセラーになった。心理学関係の本がこんなに売れるなんて珍しいなと、当時の僕はこの現象を興味を持って眺めていた。僕もこの本を持っている。兄が買ったのを、僕が貰ったのだ。実際、読んでもみた。確かに面白い本ではあった。 

 この本に関して、新聞か何かで、読者の言葉が載せられていた。それにはたいていこういうことが書いてある。「この本を読んで、人のことが分かった」とか「あの人がなぜああいうことをするのか理解できた」と。でも、あの本の著者はこの本を通じて、読者が自分の中にある邪悪なものに気づくことを目指していたのではなかっただろうか。確かそういう箇所を読んだような気がするのだが、僕の記憶違いだろうか。 

 著者は読者に自分の内面を理解して欲しかったのだ。一人一人の読者に内面に目を向けて欲しかったのだ。でも、実際にそのような読み方をしている人はいないようだった。むしろ、自分ではなく、他人の内面を覗くために読んだ人が多かったようだ。僕はそんな風に理解している。 

 つまり、心理学の本というものは、そういう読まれ方をするものなのだ。いかに自分を理解するために読まれることがないかということである。 

 その後は、心理学関係の本がよく売れるということも珍しくなくなってきた。でも、読者はその本を自分の理解につなげることもなく、他人を分析するために読んでいることに変わりはないだろうと僕は思っている。ACの本なんかはその典型である。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

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