4月18日:コロナ・ジェノサイド~僕の主張(1)

4月18日(土):コロナ・ジェノサイド(26)~僕の主張(1)

 

 コロナ騒動に関してあれやこれやと綴ってきた。これを読んでくれている人はかなり稀有な人だと僕は思っている。ありがたいことではあるけど、僕の書くことの大半は読むに値しないと感じられているのではないかと、僕個人はそう思っている。それでも、一体、僕が何を言いたいのかが分からないと思うんじゃないかな。

 一度、この辺りで僕の主張したいところのものをまとめてみようかと思う。

 

 単刀直入に言うと、僕は国のトップが危ないと感じている。首相といえども人間なので、精神が病むこともある。僕は見ていてかなりの危機感を覚えている。もちろん、これは僕の個人的な感情であり、僕の見解は一般化されてはならない。

 それと、首相を個人攻撃するつもりもない。トップを批判するつもりはないのだ。むしろ、トップが危機的状況に陥っているようなので、僕たち一人一人がしっかりしなきゃいけないということを訴えたいのである。

 以上のことを一つ一つ考証しよう。

 

 今回のコロナ騒動は、天災2割、人災8割になると僕は考えている。2割の方はどうすることもできないけれど、8割の方に対してはできることがたくさんある。

 まず、今の政府を見よう。コロナ以前からこの政府は証拠を隠滅したり文書を改ざんしたりといったことをやってきた。そういうことをやってシレっとしているのである。実はこの中に非常に病的な様相を帯びている部分があると、僕は感じている。

 悪戯をして悪いことをした子供がいるとしよう。この子が悪戯がバレないようにと隠蔽工作をしたとしよう。しかし、次の日から先生に見つかって叱られるのではないかと怯えるようになったとしよう。幸か不幸か、この子の悪事は発覚されなかった。この子は今日は助かったと安堵するものの、明日もまた同じ不安を抱えて学校に行くことになる。二日目は前日以上に怯えるかもしれない。日が経つほどこの子の不安は大きくなる。良心の呵責に苛まれる。

 この子は、悪いことはしたけれど、精神病ではない。この子は自分の行為や経験、ここでは悪戯をやったことと隠蔽工作をしたことを指しているわけだが、そうした自己の行為を自己から切り離すことができない。体験や行為の記憶は彼の中で保持されているわけである。

 彼は隠蔽工作をやった。それによって悪戯の痕跡は隠すことはできたけど、それを無かったことにはできていないのである。そして、それは正常な心理なのである。隠蔽工作をして、本当になかったことにできたとすれば、こっちの方が病的である。

 あることを隠して、それによって本当に無かったことにできるというのは、否認の心理機制である。それも完全な否認機制である。

 政府を見よう。傍から見ると、明らかに人為的に証拠隠滅を図っただろうということが明瞭であるケースがある。それでも今の政府は何事も無かったかのように振る舞えるのである。隠蔽したら本当に無かったことにできてしまうのである。ここに病的な要素を僕は見てしまうのだ。

 否認の機制とは、その人を脅かすような現実のものを心の領域から締め出すことである。健常者でもこういう機制を働かせることはある。否認によって、一時的に適応が可能となったとしても、健康な人はこれを長く続けることはできないと思う。と言うのは、心の領域から締め出したとしても、それに完全に成功することはなく、それは心の領域内に残り続けることになり、折に触れて当人の意識に上がってくるからである。こうして否認による適応は、一時的には成功するものの、最後には失敗に帰すのであるが、それが正常なのである。否認に成功する方が病的なのである。

 まず、この否認の機制なるものを念頭に置いてもらいたく思う。

 

 今、ここでは詳述しないが、これまでの政府のやってきたことの随所に否認機制を僕は感じる。証拠や文書の改ざんもそうである。森友学園問題にしろ、憲法改正問題にしろ、アベノミクスなる経済対策にしろ、すべてそうである。

 弱者切り捨てだという政府への批判もあるが、弱者の存在も否認されているかもしれない。僕は人命蔑視の思想が今の政権にあると感じているのだけれど、人命の存在も否認されているのかもしれないわけだ。

 現実の何かが否認されるということは、その否認に基づいてというか、否認されていない領域だけで物を言うので、その発言は現実にそぐわないものになっていく。要するに現実的ではなくなるわけだ。非現実的でさえあり、これは妄想レベルまで発展することもある。

 妄想とまでは言わないけれど、それに近いものがいくつも見られる。例えば、今回の補償問題も国民からは不平不満の声がワンサと上がっているのに、日本は世界に類を見ないほどの手厚い補償をしているなどと首相は言うのである。現実否認だけでなく、妄想傾向が加味されてるように僕には見えてしまうのだ。

 一部の大手企業の業績が上がったことで経済政策が成功したというのも、中小企業の存在を否認しなければ言えないことである。それでかつてないほどの経済的成長を達成したなどと信じるのも妄想的である。僕にはそう見える。

 否認されているので、全体のわずか一部分だけに注目されることになりやすい。その一部分が全体になってしまうのである。その小一部分の成功が全体の成功になってしまうのである。当然、全体ないしはもっと広い範囲が見えている人からすれば、政府の見解は支持できなくなってくるし、政府と政府以外との溝が広がることになる。

 

 先日、月曜日だったかな、テレビで政府の支持率を放映していた。僕は支持率2割くらいなものなんだろうと思っていたが、意外にも4割の支持があった。僕は一瞬、自分の感覚の方がおかしいのかと訝ってしまった。

 ところが支持派の内訳を聞いて納得した。支持する人たちのうち、大半は「他に良さそうな政党がないから」といった理由で支持に投票したのである。この人たちは、要するに、無支持派なのである。積極的に支持も非支持もしないのである。

 以前からこうした無支持派の人たちの存在があった。他に良さそうな政党が無いからとか、単に長く続いているからとか、そういう理由で支持する人たちである。政党の中身を吟味した上での意見ではないのである。そして、こういう人たちの票がけっこう集まるのである(これはこれで今の政党の特徴の一つ、それも病的な特徴の一つであるように僕には見えているんだけれど、それは置いておこう)。

 普通なら、これは支持者ではないと認識されるものである。支持票を投じてくれたけれど、本当に支持してくれているのではないということが分かるものである。それなら、この無支持者たち(反対派や非支持者たちではない)を支持者に変えるようにしようと、普通の政党ならそう動くものではないかと僕は思うのである。

 ここにも否認があるわけだ。支持派の数字が高いからそれでよく、その中身や個々の意見は否認され、無視される。

 

 どんな場合でも否認が働いていると思っておく方がいい。真摯に受け止め対応しますと政府が言っても、それはせいぜい否認されていない領域内の話であると捉えておく方が無難である。

 一つ言い忘れた。否認は単に気づいていないという現象とは異なるものである。僕たちはすべてに気づているわけではないので、指摘されて初めて気づくこともある。これは否認とは違うのである。

 否認は指摘されても気づかないのである。そればかりかその指摘が新たな否認の対象となることもある。指摘されて反撃するというのは、まだましであって、その場合、否認が不完全である(つまり部分的に意識されている)ことを示している。

 否認が完全になされている心的状況では、その否認されている領域に関するいかなる指摘も当人には届かないものである。いくら声を大にしても、それは届かず、その人の改善や反省などにつながっていかないのである。今の政府がそのようになっているように僕には見えるわけだ。

 

 少し分量が多くなってしまった。ここらで項を改めよう。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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