4月11日(日):少しでも前に
今日はひたすら書く日だった。ブログやサイトの原稿その他を書いて過ごした。
書いて、読んで、休憩して、そしてまた書いて、読んでってことをひたすら繰り返した一日だった。若いころのようにぶっ続けにやるというわけにもいかず、随所で休憩を挟まないとできなくなった。
仕事は激減しているけれど、身辺のことでやる作業が大量にあるので、今はそちらに追われている。ハッキリ言ってヒマな時間なんて無い。生きているうちにできる限りのことをやっておきたい。
今日のこのブログも、特記しておくこともないので、省略しようかと思っていたくらいだ。その時間を他に回そうかと思っていた。でも、ブログの一本くらい書いておくかと思い直して、こうして綴っている。
今朝は駅の近くで知人と会った。僕は気が付かなかったのだけれど、向こうから声をかけてくれた。僕のことを覚えていてくれているのは何とも嬉しい限りだ。「まん防」のおかげで彼とも会うことがなくなっただけに、偶然でも遭遇して、お互いが元気であることを確認し合えるのは幸せなことだと思った。
午後にもう一度だけ外出する。ついでにその辺を一周してから戻る。人の出はそれなりにあるけれど、日曜日としては少ない方かもしれない。コロナの感染拡大も懸念されるところだが、こうした日常的な風景が継続していることも必要なことであるかもしれない。そんなことを考えた。
コロナが収束して、経済生活が元に戻る日が来るだろうか。いや、いつかはそういう日が来るだろうけれど、その時まで僕が生きているだろうか。僕には生き永らえる自信がない。
仮に、経済生活が元に戻った、あるいは以前の水準に戻ったとしても、その前に地獄のような状況を潜り抜けなければならないだろう。どん底を経験しないと復活はあり得ないものだと僕は思っている。どん底に至る前に持ち返してくれたら、それはそれでいいのだけれど。
若いころだったらどんな苦境が来ても乗り越えてみせるなんて思えていたのだけれど、今はそれだけの覇気がなくなっている。乗り越えることのできない壁が見え始めている。年を重ねるとはそういうことなのだと改めて思う。
僕は悲観的な話をするけれど、それほど悲観論者でもない。幸福を思い描くから不幸がより見えてしまうだけなのだと自分では思っている。
それはともかく、今朝は少し足が痛んだけれど、午後にはだいぶんましになった。また悪化するのじゃないかと危惧していたものの、どうやら一時的な痛みで終わりそうな気配がしている。
まだまだこの足で立たなければならないだけに、気を遣う。
最近はまた音楽を聴くようになった。初期のジャズがいいと思うようになった。ディキシーランドやニューオリンズのジャズだ。時代で言うと、1920年代、30年代といったところか。今から100年近く昔の音楽だ。
その時代の人たちも苦しかったはずだ。黒人たちはもっと過酷な生活を送っていたのではないかと思う。そんな中で生み出された音楽は、苦しい人たちを助けるものだと思う。時代や国を超えて。今の僕にはあの時代の音が身に染みるようだ。
とにかく、今日も一日を無事に終えることができそうだ。何かは停滞したままであるけれど、他の何かは前に進んでいる。少しでも前に進んでいくことだ。人生でやってはいけないのは停滞してしまうことだと思う。時には自分に鞭打ってでも前に進まないといけない。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)